男前は女で 女々しくは男なり
『喜劇 男は愛嬌』(松竹)という映画のタイトルが印象深い。
46年も前の映画である。森崎東監督デビュー作『喜劇 女は度胸』の続編らしい。映画の本編を観たか記憶は怪しいが、タイトルはしっかり憶えている。
“女々しい”という言葉は男のためにあるという。
となれば、“男っぽい”、“男前”は女性のための言葉なのか。
先の都知事選で小池候補に寄り添った若狭衆院議員が、石原慎太郎さんのお粗末発言を受け、涙を流しながら聴衆へ訴えたシーンが浮かぶ。
男らしさを感じる小池さんと対象的に、男女のキャラが逆転したような気がした。
アベノミクス、三本の矢、1億総活躍社会?
違和感を否めない。明確な言葉が出てこない時は便利だろうが、言葉だけで飾るその女々しさが後味悪い。
「◯◯ホールディングス、今期予想を下方修正、スーパーや百貨店で減損損失」などの現実を見るたび、デフレ脱却など口先だけだったのかと・・・。
この方の作品は、骨太で男より男っぽい。
山崎豊子さんは長編小説『大地の子』を書き終えたとき、虚脱状態だったという。
いつもなら「完結!万歳!出獄だ!」と、とびはねるのだが、そのときは違った。
そうならなかったのは、「限界を超える仕事に挑んだのではないかと、最後まで不安だった」からだという。「取材の壁が厚いとよくいうが中国の壁は厚いでは足りず、厚くて、高くて、険しいものだった」と。現代中国を描く難しさだったそうだ。
「商人(あきんど)いうもんはどない大きな肚を持ってても、算盤珠弾く時だけは細こう汚のう弾くもんだす」。女主人公・多加が言う。直木賞受賞作『花のれん』の一節にある。
『白い巨塔』、『華麗なる一族』など後年の代表作を読んでいるだけに、主人公の口を借りて創作の秘密が語られるように感じてならない。
戦後日本の“暗部”を丸ごと作品に取り込む大きな「肚」と、物語の面白さを細かく弾いた「算盤」。そのどちらが欠けても山崎文学の魅力を言い表せない。
緻密な取材を重ね、誰の真似ではなく、誰にも真似できない孤高の暖簾を、しっかり守り抜いた作家である。
『白い巨塔』も衝撃的だった。
それまで、(一般の人たちが)医師会の内幕は、あれほどまでとは知らなかったはず。
それ以後の医師会のドラマや作品は、『白い巨塔』が下敷きになった。
思えば、あの時代の作家やマスコミは、腐敗を鋭く追及した社会派が多かった。
山崎さんは大阪弁で、「長編に6、7年かかるが、失敗したら6、7年がパーや」と言った。長編に取りかかると短編も書かないし、対談も講演もしない。
前作を超えるものを自分に課し、そのための取材とイマジネーション。
取材した事実と往復する事で、イマジネーションを超える事実に行き着いたという。
亡くなられて3年が過ぎた。最後まで自分を貫き通したあの才能が惜しくてならない。