日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

カレンダーの日に思わぬ歌が

 

1872年(明治5年)のこと。師走の声を聞いたと思えばすぐに、<きょうは元日、明けましておめでとう>ということになったそうだ。その年の旧暦12月3日が新暦の明治6年1月1日になったというのだ。

政府は月の満ち欠けを基準にした旧暦を改め新暦(太陽暦)を採用し、「来る12月3日を新暦(太陽暦)の明治6年1月1日とする」と発表した。

それまで太陰太陽暦ですべてが動いていたのが、わずか23日過ぎで暦が変わることになった。改暦の布告からひと月もたたないうちの切り替えで、あわてた人も多い。想像以上の混乱ぶりだったという。

2日間のただ働きで12月分の給料がもらえないとぼやく官吏。翌年の暦を印刷済みの業者ももちろん嘆く。新橋~横浜を鉄道が開通するなど、近代国家建設の盛んな時期にてんやわんやの大騒動と相成った。1年の日数が旧暦の354日から365日に増えた歴史的瞬間である。

 

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日本国民に大きな衝撃を与えた(1872年の改暦という)史実に基づき、1988年(昭和63年)には全国団扇扇子カレンダー協議会により、12月3日を「カレンダーの日」と定められた。

話は飛ぶが、2対6対2という比率があるそうだ。ある職場の社員を分類すると、優秀な者が2割、そうでない者が2割、あとの6割は普通、といった具合に分かれるという。
神輿(みこし)を担ぐときは、必死なのが2割で、別の2割は棒にぶら下がっているなどといわれる。多くの組織にも、この比率があてはまるとされる。

もし、普通の割合が減り、集団が二極化すると不安定になる。そうなると神輿は倒れてしまうかもしれぬ。普通が6割の塊で存在することに意味がある。1年の内容がごっそりずれて変わってしまうときには、いったいどのような比率で賛否が分かれ、どのように説得されて切り替わったのか。掘り下げてみると、そこに大きなドラマがあったような気もする。

 

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当時の社会は太陽暦にのっとり動いてはいたが、大正、昭和へ入るまで庶民の暮らしはまだまだ旧暦によるところが大きかったという。現代でも“五月雨(さみだれ)”みたいに、5月が梅雨どきであった旧暦に重ねないと、雨の情景が浮かんでこないような摺り込みも、私たちのなかに生きている。

農村の種まきや祭礼日、親の命日などが旧暦通りに行われていることもあるだろう。
1947年(昭和22年)の調査で、<新旧暦を併用して使っている>と答えた人は、全国で44パーセントにものぼったという。

いかに庶民の暮らしに太陰太陽暦が浸透していたかを思えば、改暦当時の大混乱ぶりは相当なものであろう。ただ、この改暦により、太陽暦を採用している諸外国と(外交上で)足並みをそろえることができたメリットは大きいし、日本が文明国家に仲間入りしたことを海外に広くアピールすることもできたはずだ。
その後、日本が大きく成長できた礎のひとつといっても過言ではなさそうだ。

 

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<1日1歩/3日で3歩/3歩進んで2歩下がる♪>。
知る人ぞ知る『三百六十五歩のマーチ』という歌謡曲の(歌詞の)フレーズである。
どういうわけか、私はこの曲の生歌を最近よく聴く。昨日も、今日もである。

小さな子どもたちが、大声で元気に歌っている。ふだん、無言でゲームに没頭しているような現代の子どもたちが・・なのである。

この曲を歌って大ヒットさせたのは水前寺清子さんである。
初めてこの曲を聞いた時、それまでの水前寺さんのイメージとはかけ離れ、行進曲スタイルになった楽曲に拒否反応を示した。

演歌歌手のプライドで英語の“ワンツー”という歌詞にも反発があり、レコーディングも歌い出すまでに時間を要した。

作詞の星野哲郎さんは<息の長い歌手でいるには、違うタイプの歌も歌えなくてはいけない>との親心だった。大ヒットのあとに初めて水前寺さんは感謝できたという。

その親しみやすいメロディーと水前寺さんの元気あふれる歌声が評判を呼び、100万枚を越える売り上げとなった。水前寺の最大のヒット曲であるが、別の視点でとらえると、<新暦の大々テーマソング>でもあるような気がする。

<一年三百六十五日・・♪>。歌の中にもこのフレーズが出てくる。
今年も今日で337日目である。あと3週間でクリスマス・イブ。4週間で(365日目の)大晦日がやってくる。

 

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