メモを始めたきっかけは明快
もう何年も(高校野球のテレビ観戦はしているが)プロ野球をまったく見ていない。ところが、“YouTube”ではプロ野球の面白さにドップリと浸かっている。
長嶋さんや王さんが現役もしくは監督時代にプレイした若手(だった)選手たちが、すばらしいエピソードを余すことなく語っているからだ。
あの時代...個性あるスター選手の宝庫だったプロ野球。多くの選手に興味が尽きない。その中でも私のお気に入りだったのは野村克也さん。
テスト生からスタートした南海時代には「不器用なので変化球にはある程度、球種を絞らないと対応できない」と感じ、捕手の配球の傾向や投手の癖を徹底的に分析し始めた。
南海では戦後初の3冠王も獲得。捕手で4番バッター、監督もつとめた。それでもスター気取りはいっさいなく、「キャッチャーは“捕手”と書くが、私は、投手を助け、足りないところを補う“補手”だと思っている」と<生涯一捕手>を何度も口にしていた。
どんな巧みな打者も7割の確率で打ち損じ、どんな豪腕の投手も失投から逃れられない。ならば失敗する確率を減らすしかない。そのためにデータを集め練習を重ねるのだ、とも。人生の大部分の時間を使い、野球の奥の深さと面白さを世に広めた人である。
「野球は気力1分、体力1分、残り8分は頭ですよ」。精神論が幅をきかせたプロ野球に知の魅力を吹きこんだのも野村さんで、“ID野球”のルーツだ。
監督時代には、選手へ“プレイの根拠”を求め続けた。攻略法を考えれば漫然とプレイはできない・・・と。伸び悩む選手たちをコンバートや起用法などで再生させる手腕は“再生工場”と話題になった。
そして、データ分析はあくまで野村野球の戦略の一つであり、人間を生かすも殺すも言葉次第と、選手の特性を見極めて“勝つ言葉”を与え続けた。
適性を見抜く能力に加え、人心掌握術にも長けている。“野村流再生工場”の先駆けは(先発完投が主流だった南海時代に)阪神から移籍した江夏豊さんを「球界に革命を起こそう」と口説き、救援に配置転換したことだろう。
「不思議なもので、一晩たつと細かいことのほとんどは忘れてしまう」。メモを始めたきっかけは明快だ。
ある日、練習後のミーティングで野村さんは語ったという。「目立たない脇役でも、適材適所で仕事ができれば貴重な存在になる」と。
ミーティング内容も、打者心理をどう読むかといった戦略的なことだけでなく、いかに生きるべきかなど人生哲学に触れる内容も多かったとのこと。
根底には、選手として能力を向上させるだけでなく、人としても大きく成長してほしいとの願いがあった。
野村さんの“ぼやき”は“愚痴”ではなく、理想主義の表れだともいわれる。「もうダメだ」と、思うようにならない時に言うのは愚痴。「まだダメだ」なら、ぼやきで突破するための方策を考え、希望というその先に向かうことができる。
野村克也さんのぼやきは、実績に裏打ちされた説得力あふれる野球理論だったようだ。
テスト生として入団し、陽の当たることが少なかったリーグで数々の記録を打ち立てた。そして、幾多の人材を野球界に残した人。いつまでも語り継がれてほしい「月見草」である。
監督として1565勝1563敗。最初は負けても時間をかけて勝ち星を増やしていけばいい。最後は五分五分で、いくらか勝って終わる。そんな人生の妙味もすばらしい。