日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

閉じるようにできていない耳

 

人とは<眼前の獲物に夢中で、頭上から狙われていることに気づかない小鳥のようなもの>なのかもしれない。江ノ島や鎌倉のトンビを連想してしまう。いともかんたんに人の食物を盗み去り、人は空を飛んで取り返せない。

先日、住宅街を歩いていたら、帽子をかぶる私の後頭部を誰かがコツンとした。知り合いのイタズラかと思いきやカラスであった。私の住む市では昨秋からゴミ廃棄の有料化が始まり、戸建て住宅では生ゴミも各玄関前に置くようにされた。

そのゴミを漁るカラスが増え、方々で汚い状態になっている。カラスにしても狙う家の縄張りがあって、人への威嚇もあるのだろう。

カラスは賢く、人間の顔を識別したり、ボール遊びもする。道路にクルミを置いて車に割らせ、中身を食べることも・・・。以前テレビで見たが、カラスは公園で水道の栓をくちばし回し、蛇口から水を飲んだり、水を噴き上げさせて水浴びもする。

 

 

アフリカに生息する(カラスみたいな)クロオウチュウは信用を逆手に取るという。他の鳥や動物が獲物に群がるのを見張り、敵が近づくと高声で鳴いて危険を知らせてあげるのだ。

そこで得た信用を利用して何回かに一度は嘘の警告で鳥たちを追い払い、自分だけでゆっくりと獲物を失敬するのがお得意らしい。

ヨシキリの巣などで育ててもらうカッコウは、鳴き声で親を欺くのが上手だとか。“シッ”と一声出すヨシキリのひなを意識してか、カッコウのひなは“シシシシ”と(親鳥に)ねだり続けて給餌を優先させる。

なかなかの知能犯だと思えるが、生物たちもそれぞれのだましのテクニックを駆使して生きぬけているらしい。耳に訴えるその技術は「音響擬態」といわれる。

さて、私たちには耳が二つあるのに、口はたった一つしかないのはなぜか。古代ギリシャの哲学者キプロスのゼノンは説いたそうな。<それは、より多く聞き、話すのはより少なくするためだ>と。

 

 

物理学者・寺田寅彦さんは問い掛けた。<眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう>。

私たちの耳の進化の歩みとは、なかなか味わい深いものらしい。耳は元々、体の平衡を保つための感覚器として生まれたという。生物の進化の歴史の中で、重力を感じ、体の傾きを感知する平衡覚器であったのだ。

そこに水の流れや振動を感じる感覚細胞が加わり、やがて陸に上がった脊椎動物には、空気の振動を伝えるための“中耳”が生まれた。その中耳をつくるために使われたのがエラだという。

考えてみると、最古の感覚器の一つでもある私たちの耳の中では“エラのかけら”が今も働き続けているということなのか。

さて、閉じて見て見ぬ振りをする眼に対抗するには、(閉じられなくとも)都合の悪いことは聞こえないフリをする「体現技術」の習得が必要になってきそうである。(ふむ)