日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

熱心な共感力で我が身を試す

 

<何十年かたった後に、時代を思い出す最初の扉が歌であればいい>。作詞家・阿久悠さんの(自らの)作品に対する、思いであった。世の中にとっての歌は? との問いかけにて、それが答えのひとつだったようだ。

相手の側に立って考えられる能力のことを“共感力”という。漫才のネタ作りにも共感力が必要だといわれる。そして、客の誰もが共感し、心から笑えるものもあれば、炎上する刺激的なものもある。

<棋は対話なり>って言葉があるんですよ、と言ったのは将棋の羽生善治さん。駒を動かしながら心の中で相手と会話を交わすのだ。「ここまで取らせてください」、「わかりました。そこまではいいでしょう」、「では、これもいいですか」、「それはちょっとよくばりでしょう。こちらも戦いますよ」・・・という具合にである。

押したり引いたりと、こうした対話を重ねながら、自分の有利な展開へと最終的に導いていくものらしい。

 

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研究熱心の医学者だったという。ドイツの医師ベルナー・フォルスマンさんは、自分の身で試してみる。ある時、自分の腕の静脈にゴムの細い管を入れ、片方の手で管を心臓へと押し入れていった。

そして、そのまま地下のレントゲン室へと歩いて行き、X線写真で管の先端が心臓に達しているのを確認。

この写真が証拠となり、後年にフォルスマンさんは心臓カテーテル法のパイオニアのひとりとしてノーベル医学生理学賞を受賞することになる。

いかにもケチで意地の悪そうなお婆さんを、電車の中で見つけたのは樹木希林さん。ふつうなら観察するだけだが、希林さんはあとを尾けた。電車とバスを乗り継ぎ、たどりついたのは千葉の高齢者施設。

希林さんは中に入り、お婆さんや入所者の人たちとおしゃべりをし手を握ったりした。指の先だけちょん切ったレースの手袋、珍妙ですその長い割烹着。『寺内貫太郎一家』の“キン婆さん”の衣装は、この体験から生まれたそうな。

 

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樹木希林さんのエピソードは多い。あの向田邦子さんの遅筆に腹を立て、「筋だけ書いてよ後はこっちでなんとかする」と大げんかになった、と。

役者としての絶対的な自信はあったはず。脚本に書かれている以上のことを、その歩き方や背中で語っていた。そして、アップを求めなかった。

<監督、わかっていると思うけど、みんな背中で芝居できる役者が集まっているんだから、顔のアップ撮ったりしなくていいからね>と、是枝裕和監督に伝えた。

希林さんは作品全体のトーンやバランスも自分で考えて演じる。アップなんて邪魔なのだろう。そして、恥じらい方、ねたみ方、転び方など、人間というものに目を凝らして毎日を過ごしてきた俳優だ。

1964年のテレビドラマ『七人の孫』では、21歳の希林さんが森繁久彌さんと丁々発止のアドリブ合戦を演じた。希林さんいわく、<森繁さんが本なんか無視して、どんどんその場でつくっていく面白さに洗礼を受けた>とのことである。