日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

封建制度で生まれる名ドラマ

 

“封建的”、“封建制度”などの言葉は今もよく使われる。かつて映画界では封建的な五社協定というものがあった。戦後、映画興行から映画制作を考えていた日活が、映画他社の監督や俳優などを引き抜こうとの動き。それを封じようと、松竹、東宝大映東映、新東宝の大手映画会社5社は1953年に「五社協定」を申し合わせた。

協定内容は<スターを貸さない、借りない、引き抜かない>という三ない主義だ。5年後、日活も協定に参加し「六社協定」となるが、新東宝の経営破綻で1961年には五社協定の呼称に戻る。

1964年、三船敏郎さんと石原裕次郎さんの2人が会見し、三船プロ石原プロの共作で『黒部の太陽』を映画化すると発表。しかし、実現までにはかなりの時間を要した。日活の社長・堀久作さんは五社協定を盾に猛反対。頓挫寸前にまで追いこまれた。その作品も紆余曲折を経て、1968年3月に公開され大ヒット。

 

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テレビなどで歌番組も多く歌謡曲といわれた時代、各レコード会社は専属の作曲家、作詞家、歌手がいた。専属作家は他社の歌手へ楽曲提供ができず、歌手も社内作家の曲しか歌えない。

シンガー・ソングライターの若者たちの台頭で流れは変わった。自ら歌いながら、アイドル歌手へ曲の提供。ヒット曲が量産され、歌謡曲と呼ばれるジャンルは衰退した。

行きたいチームとの相思相愛を許されないプロ野球のドラフトも、封建制度に感じてならない。

ドラフト以前のプロ野球自由契約である。大スター・長嶋茂雄選手は、東京六大学リーグ戦通算96試合に出場し、打率.286、8本塁打、39打点、22盗塁の活躍。守備や俊足も関係者から高い評価を得た。

プロ入りが確実視され、さまざまな球団が長嶋選手と接触を図った。本命は南海ホークスで契約を交わす寸前だった。それが一転、巨人への入団(1958年)に決まる。

 

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長嶋さんと同期入団には難波昭二郎選手(関西大)がいた。大阪府出身で関西の大学球界を代表する三塁手。<東の長島、西の難波>と称された。しかし、長嶋さんの前では活躍の場に恵まれず、1962年に西鉄へ移った。

第1回ドラフト会議は1965年。堀内投手(甲府商)は巨人に入団。その翌年は江夏豊投手(大阪学院高)が、巨人、阪神東映、阪急の4球団から1位指名された。

大豊作といわれたのは第4回ドラフト(1968年)だ。田淵さん・山本(浩)さん・富田さんの法大トリオ、星野投手(明大)、東尾投手(箕島)など大物が揃った。

指名順が先の阪神は巨人入り希望の田淵さんを1位指名。田淵さんが他球団に指名されたら、巨人は星野さんを指名する予定。しかし、<即戦力より素質のある高校生>との川上監督の希望で島野投手(武相)を指名。

巨人からの指名を確信していた星野さんは吠えた。<ホシとシマを間違えたんじゃないのか!!>。ドラフトではその後も、封建制度の産物なればこその、語り継がれるドラマが山ほどあるようだ。