非効率の中に潜むものがある
懐かしいテレビドラマに『とんま天狗』がある。あの“鞍馬天狗”を下敷きにしたコメディ時代劇だ。大村崑さん扮する主人公は名前を“尾呂内楠公”といい<姓はオロナイン、名は軟膏>が決めぜりふとなった。
番組スポンサーの主力商品名を、そのまま主人公の役名にしてしまう奇抜な発想もすごいが、昭和の子どもだった私はその商品を見るたび、今もあのセリフを頭の中で連呼している。
1960年、米大統領選のテレビ討論は語り草であった。議論の中身とは関係なく勝敗が決したからだ。ケネディ対ニクソンの一騎打ち。濃紺スーツに身を包んだケネディは、腰掛けるとすぐさまダンディーに足を組んだ。
かたやニクソンはくすんだ灰色のスーツで、ひざを開き気味に座った。モノクロ放送の時代だ。ニクソンは白くぼやけ、足の姿勢も相まって、さえない人物に映った。本当はどちらがいいことを言ったのか、ほとんどの人が憶えていなかった。
<テレビは脚本、映画は監督、演劇は役者でよしあしが決まる>。脚本・演出家の成井豊さんは著書に記した。テレビは資金も時間も限られ、最初の脚本が出来栄えを左右する。映画なら監督が絶対の権限を持ち、役者は言いなりに動くしかない。演劇の場合、もし監督や脚本がダメでも役者に力と華があれば、観客全員を魅了してしまう。
演劇だけに限らず、音楽の演奏や踊りでも(生身の人間が)本気で表現したり訴えたりする姿には、人の足を止めさせる力がある。つまり、生の舞台にはそのような魔法があるのだ。
作家・村上春樹さんは、自伝的エッセイ『職業としての小説家』に書いたという。<小説を書く仕事は、実に効率が悪い>と。そして、非効率な中にこそ真実・真理が潜んでいる。効率の良いもの、悪いもののどちらが欠けても、世界はいびつになる、とも語った。
飽きっぽいといわれる人がいる。さまざまなものに興味を抱くがすぐに飽き、三日坊主で終わることもある。
飽きっぽい人は常に何かを欲求している状態にあるのだ。欲求が満たされているときはおとなしいが、すぐに新しい欲求を求めてしまう。空きっ腹で欲求が満たされていない状態だと貪欲に行動するが、満腹になれば欲求が中断される。それでも、またお腹がすくので欲求が出てくる。そのことの繰り返しである。
ものは考えよう。飽きっぽい人は好奇心がとても強い。この欲求が何度も出てしまうことこそが、飽きっぽい人の最大のメリットなのだろう。好奇心を抱くとじっとしていられず、頭で考えるより先に行動へ移っているからだ。
そのためにはパワーも気力も必要で、誰もが真似のできることではない。飽きっぽい人は自分が興味を抱いたものに、とことん集中してとりかかる強い精神力がある。そして自覚症状もある。意識することで、飽き性を克服しやすい性格でもあるのだ。
ものぐさな私からは、あの好奇心とパワーがうらやましくてならない。