日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

「普通の割合」で得られること

 

おもしろい人と話したりおもしろい話を聞くと、人生で得した気分になれる。一対一が対談、3人だと鼎談(ていだん)。では4人以上は・・・となれば“座談会"らしい。

原始時代には、スペシャリストもいなかったし、個人主義など発生する余地もなかった。文字が発明され、特に印刷技術の発明以後は、文字を知っているものだけが、より多くの情報を独占できたらしい。

言語や印刷メディアでは、それが思考パターンに課す論理のとりこになることにもなる。印刷技術の結果、人間は「目の文化」ばかりを発展させたが、原始時代の方がよほど五感平均にバランスしていたという。

 

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プリント・メディアは“ホット"であるのに対し、スピーチ(演説)などは昔から“クール"なメディアであった。それは、<与えられる情報が少なく、聴衆によって補う部分が大変多かった>からである。

また、論理的に書かれた本を読むとき、黙っていても多くを与えられるが、チカチカしたり、ボヤケたりするテレビのスクリーンから、(ぼんやりしていては)得るものが少ない。

時が流れ、インターネットでかんたんに“情報が得られること"を手に入れたが、それでも自分にとって必要な情報をネットだけでは得られない。検索方法が稚拙な場合もあるが、欲しい情報にたどり着けても内容が浅かったりする。

インターネットが一般化する前から、私はパソコンでネットを利用し、仕事や趣味で活かしていた。あのとき、書物やテレビとはちがう情報を先取りできたが、今はだれでもスマホでかんたんにそれができて、めずらしさは失せている。

 

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2対6対2という比率があるという。例えば、ある企業の社員を分類すると、優秀な者が2割、そうでない者が2割。あとの6割は普通、といった具合だ。多くの組織にあてはまるとされる。

神輿(みこし)を担ぐとき、必死なのは2割、別の2割は棒にぶら下がっているなどともいわれる。もし、普通の割合が減って、集団が二極化するとなれば不安定で、神輿は倒れてしまいそうだ。

普通が6割の塊で存在することに意味がある・・・のだと。

「さ」の1字を「か」に替えてみると、何をするにも遅すぎることはなくなる。「今さら」と思うのをやめて「今から」やればいいのだから。

過去・現在・未来。言葉だけでは3つあるが、人はだれでも常に「今」という現在地点の上に存在しているだけである。

「今から」始める機会は無数にありそうだが、「か」を「な」に替えてみて「今なら」にすると印象が変わる。この機を逃せば手遅れになりかねない、とも思えてくるからだ。

「一番の近道は遠回り」だと、イチロー選手も言っていた。<近道しようとしていたらたどり着けないこと>って、案外多いのである。最近それをよく実感している。