日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

どこで観ても映画は映画なり

 

数字で表す“視聴率”とは別に、どれだけ熱心に番組が観られ、視聴者の心に深く残ったかを示す指標を「視聴質」というそうだ。

多くの人がどれほどテレビ番組を観たか、という視聴率に代わるのが視聴質である。

どのように番組がおもしろがられているかを評価するのはとても難しいが、視聴率調査もよりきめ細かさを求められる時代である。

最近の視聴率を巡る動向で、その価値観が変化するのではないかといわれる。業種によって、ゴールデン帯の番組にCMを出したがらない企業があり、視聴率の高い番組のCM枠でもあえて買わない、という企業も出ているとのこと。

番組に資金提供するスポンサー企業は、<視聴率が低くても狙った消費者層に伝わるなら、CMを打つ>とのことである。そのため番組がどう受け止められているか、より緻密な調査と指標が求められている。

 

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テレビ番組に限らず、動画の提供のされ方がどんどん変わりつつある。
昨日見つけたコラム記事『「映画館で上映されない映画」の時代』(読売新聞)を、興味深く読んだ。

本年1月に公開された映画『タンジェリン』(ショーン・ベイカー監督)は、iPhoneで全編を撮影された作品だという。

米国のロサンゼルスの性的少数者を主人公にしたコメディで、その感想は画像の粗さが少し気になるものの、作品の面白さは損なわれていなかったそうだ。
スマホで撮った作品だから、「これは映画ではない」と思った観客はいなかっただろう、と。

5月に開催されたカンヌ国際映画祭では、動画配信サービスNetflix(ネットフリックス)が製作した映画2本がコンペティション部門に選出され、論議を呼んだそうな。開催国フランスの映画館で上映されなかったことが原因だった。

来月は、その1本『マイヤーウィッツ家の人々』の配信が全世界同時で始まる。
日本では(映画館で上映されないが)、「これは映画ではない」と言えるだろうか?

 

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かつて、映画には定義があったと思う。
<フィルムで撮影した2時間前後の映像が、特定な空間である映画館の大スクリーンで、大勢の観客が同じ時間に観る>。

今はその条件をクリアする映画は少なく、ほとんどの映画がデジタルカメラで撮影され、フィルム上映できる映画館も限られる。

映画を観る場所も、映画館、家庭のテレビ、個人のパソコン、スマートフォンと多様化しているのだ。観客は、空間と時間から自由になっている、という。

<大きなスクリーンで見るのが、映画を見る最も美しい形だという考えに変わりはない。しかし、技術の発展によって、高画質、高音質の映画を自宅で鑑賞することが可能になった今、動画配信で見るのも、映画を見る一つの形ではないか>。
ファンタジー『オクジ/okja』(Netflix製作)のポン・ジュノ監督は言う。

モノクロの無声映画から、3D映画、そしてVR(バーチャルリアリティー)映画まで、映画の歴史は技術革新の歴史だった。今は、映画の概念が変わってきているのだ。