日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

継がれゆく人情というDNA


<煮凝の とけたる湯気や 飯の上>という句がある。

明治生まれの俳人鈴鹿野風呂(のぶろ)さんの作品だという。

“にこごり”は、「煮凝り」や「煮凍り」とも書くそうな。

前の晩にこしらえた煮ものの煮汁が寒い台所で凍り、その中に魚の身がとじこめられている。口に入れるとやさしく溶け、甘い魚の脂が広がる。

寒天を使い型に流し込む煮凝りもあるが、寒気という“天然の料理人”にはとうていかなわない。

<妻よ、誤解するなかれ 愛情は、冷めたのではない 固まったのである>。
こちらは10年以上前の「心に響く三行ラブレター」の入選作である。

誰もが時間をかけて風味ゆたかに固められればいいのだが、夫婦の愛情という料理の調理法はなかなか難しいらしい。(ふむ)

 

1782

 

出生率の低下が始まって40年も経つらしい。
“子宝”という言葉を忘れ去られたことはないだろうが、子どもを子宝と感じなくなった社会が少子化の根っこにあるのでは、という意見を訊いた記憶がある。

命を子につないでいくという、(生物としての)日本人の生命力が弱体化し、保育所の子どもの声に活力を感じるのではなく、騒音だと苦情にすり替わったりする。

子どもの死亡率が高く多産だった時代、子育ては親族や近隣社会が総掛かりだったという。子育ては未来を信じることにほかならないからなのである。

幕末にやってきた欧米人たちは、日本人の男女が子どもと戯れている光景を、驚きとともに讃えたそうだ。

<社会が育てる主人公こそが子ども>なのである。だからこその“子宝”なのだろう。

 

1783

 

<母親が病気を患い金に困り、ろくに食べることすらできない力士佐野山がいた。無敵の横綱谷風は気の毒に思い、結びの一番でわざと負けてやる>。

江戸の「人情相撲」を描いた落語である。

7勝7敗で千秋楽を迎えた力士はなぜか勝つことが多い。
米国の経済学者はそれを数字で示した。

勝ち越しか負け越しか瀬戸際の力士が8勝6敗の相手と対戦した場合、約80%は前者が勝っていた。

2000年までの約10年間にわたる3万2千の取組を調べた結果だというから、今の相撲と一致するかどうかはわからない。

星の貸し借りがあるのでは、ということを漠然と訊いていたが、「そんなの八百長じゃないか」と言い切れない自分がいる。

昔の力士の取り組みをテレビで観ると、ホッと感じるなにかがあるのだ。それは、仕切りのスムーズさや、勝ち力士が土俵外や倒れ込んでいる相手へ、当然のように手を差し伸べるしぐさに、である。自分の忘れていたものがそこにあるような気になる。

思えば自分の中にも、日本人のDNAが受け継がれているらしい。そのDNAはむずかしいことでもなんでもない。かんたんに言えば<相手を思いやる気持ち>なのだから。