日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

地球という名の池に春が来る

 

1年を4等分して“春夏秋冬”を当てはめる方式を定めるのは、気象庁の「気象観測統計指針」なのだという。天気予報で“春の気温”という場合、日本中のどこでも3~5月をさすそうだ。

便宜上の季節区分ではあるが、(気分的に)2月から3月への変わり目は安らぐ。
<冬来たりなば春遠からじ>とは、英国の詩人・シェリーの詩『西風の賦』の一節だ。
つらい時期を耐え抜けば、幸せな時期は必ず来る。

1日のうちに必ず日没と日の出があり、1年で四季が一巡するが、人生の時間の流れはそれほど確かではない。石の上にもなんとか・・・。

絶望の折には、とりあえず3年生きてみようと考える。それで救われる場合があるのだと、心理カウンセラー・諸富祥彦さんは著書に記した。春の訪れを信じることのできない人にも、もしかしたらと思わせる時間が3年なのかもしれない。

 

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千利休の庭で朝顔の花が満開と訊いた豊臣秀吉は、利休から“明朝に”と誘いを受けた。さっそく訪ねた秀吉だが、庭に花など咲いていない。

秀吉を迎える朝、利休は朝顔をすべて摘み取り、一輪だけを茶室に生けたのである。秀吉は称賛した。「さすがは利休よ・・」と。

もし、その一輪が来訪前にしぼんでしまったら、などと考えると、おそろしくもなる。
反逆と紙一重で美の道を究める人には、敬服するほかはない。

1591年(天正19年)の2月28日、利休は秀吉に切腹を命じられて世を去った。“利休”の号は、正親町(おおぎまち)天皇から授けられたものだという。

“名利”の利、“財利”の利、“鋭利”の利を休むという意味なのか。
現代も、最も欠けているものは<利を休む心>であるのかも知れない。

攻撃のみに心を奪われた国会議員、決算をうそで飾り立てた大手企業、談合と天下りで凝り固まった役人など、身の周りは<利に転んだ人>であふれている。

 

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戦前の辞書は“あい(愛)”に始まり“をんな(女)”で終わり、戦後の辞書は“あい(愛)”に始まり“わんりょく(腕力)”で終わったそうな。(最近の辞書の終わりは“ワンルームマンション”に変わっているらしいが)。

2005年3月、台湾の独立阻止を目的とした「反国家分裂法」が中国で成立した。
台湾の呂秀蓮副総統(当時)は十数年前、女性ならではの柔らかな 喩えで中台関係を語った。

<台湾は中国と離婚した前妻のようなものだから、中国も脅すのではなく、ロマンチックに口説かなければ・・・>。

台湾の独立阻止を目的に採択した国内法は、台湾への武力行使の可能性を改めて予告するものとして、波紋を投じた。武力行使の、法的根拠を手にしたことになる。
腕力ほどロマンチシズムに遠いものはないはずだ。

 

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地球環境を語るとき、しばしば引き合いに出されるクイズである。

池に蓮の葉が1枚、浮いている。突然変異なのか繁殖力が旺盛だ。
1日で2倍に増える。2日で4枚、3日で8枚と。計算で、池が覆い尽くされるのは30日だという。

池の半分が蓮の葉で埋まるのは何日目なのか?  答えは、29日目である。
半分埋まるのに29日もかかったのだから・・・と、のん気に構えていると、破局の瞬間が翌日に迫っている。

<まだ、半分残っているから>と、たかをくくっているうちに手遅れになるのは、地球という名の池のことなのだろうか。

無理なことや頼りないことのたとえに用いられるのが“蓮の繊維で石を持ち上げる”だとか。そして、<蓮の糸で大石を釣る>ということわざがあるそうだ。

細い糸を一国また一国と縒り合わせ、太く強靱な縄に編んでゆかねばならない。それは、水面を覆う蓮の葉との競争なのである・・と。