苦肉の策があればこその流行
世の中、自分の意志とは別の力で、思わぬ方向の仕事で花開くこともある。
あの越路吹雪さんがスターになる前、所属する東宝からの経費は潤沢とはいかなかった。ラジオ番組で歌う外国曲の訳詞も、プロの作家に頼むとお金がかかる。
「あんた、やってよ。(学校は)英文科でしょ」。越路さんは、仲のいい女性マネジャーに泣きついた。作詞のサの字も知らなかったそのマネジャーこそが、のちに大ヒットメーカーとなる作詞家・岩谷時子さんであった。
越路さんも、岩谷さんの才能を見ぬいての依頼ではなく、お金がないための苦肉の策だったはずだ。岩谷さんご自身、作詞の才能に気づいておられなかったことだろう。
もし、そのときに越路さんがお金持ちで、名のある作家に依頼していたら、(岩谷さん作詞の)数々の大ヒット曲は生まれていなかったはず。
『君といつまでも』、『夜明けのうた』、『ウナ・セラ・ディ東京』、『ベッドで煙草たばこを吸わないで』・・・など、今もかんたんに口ずさめてしまう。岩谷時子さんのおかげであり、越路吹雪さんにも感謝しなければいけない。
最近、巨人の新監督が決まった。高橋由伸さんである。テレビやニュース記事では、“高橋新監督”と姓だけを使うケースはとても少ない。どうしてもお名前の“由伸さん”まで付けて書かれている。現役時代に球団内の選手やスタッフで、同姓の方がいらしたかどうかはわからぬが、(入団から)ずっと“名前付き”で呼ばれていたようだ。
昭和の政治家に、ふたりの吉田茂さんがいたそうだ。ひとりはあの“ワンマン宰相”、もうひとりは米内内閣の厚相を務めた吉田茂さんなのだという。
ときには、郵便物や届け物が間違ってそれぞれの自宅に届く。そのため、ふたりは取り決めを結んだそうだ。<郵便物は互いに回送する>。<生鮮の小包は遠慮なく食ってしまう>などと。
作曲家・團伊玖磨(だんいくま)さんは、「團」を「団」と書いてある郵便物は受け取らなかったとの伝説があるそうだ。名前にまつわる逸話も多いようだ。
あるサプリメントの製造・販売会社では、<同姓の社員がすでにいる>との理由で新入社員に偽名での勤務を強要したという。
そのため、退職した新入社員が慰謝料などを求めた訴訟では、会社が550万円の解決金を支払うことで和解が成立したという。
同じ職場内で、同姓の社員がいると、やりにくい面はあるだろうが、まわりでわかりやすい呼び名を考えればいい。(苦肉の策よりたやすい)“アイデア”だけでよいはず。かえって、そういうことで和やかさも生まれるだろう。それを“偽名にしてまで”というのはとても不思議である。
最近、新聞記事で知ったのであるが、カンロ飴(カンロ)の味の決め手はしょうゆなのだという。あのおいしさが、(飴の甘さとは異質な)しょうゆだったとは、思い浮かばなかった。
カンロ株式会社の前身である宮本製菓は、1912年に山口県で創業した菓子メーカーで、元々“かりんとう”や“あめ”などを製造販売していた。世界大戦後、不況の影響と、
原料糖の不足などから業績悪化に陥る。当時は、外国製ドロップなど様々なあめが売られていたのだ。
とにかく、業績回復に向けた新商品の開発が迫られていたのである。
そして、<世間を驚かせる斬新な商品を>と思いついたのが、しょうゆを添加したあめなのだという。
ただ、砂糖や水あめを加熱して作るあめは、しょうゆが入ると焦げたり、べたつきが出た。
挑戦する企業はあったが成功例はなかった。それでも、<甘辛くてコクのあるあめが完成すれば必ず売れる>と信じた。
地元の醸造業者と約3年間、あめ専用のしょうゆの試作を重ね、加熱しても焦げず、美しい琥珀色のあめが完成したのである。その飴は1955年に商品化されることになった。
<天から降る甘い露>との意味を込め、“カンロ(甘露)飴”と名付けられた。発売直後には模造品が出回るほどの人気だったそうだ。
関西中心だった販路も各地域に拡大して、全国に知られるあめとなっていく。
<優しい甘さの素朴なあめ玉>。60年間変わらない味の決め手は、しょうゆ。
1955年発売当時、あめ玉は1粒ずつ量り売りされていた。一般的な商品が1粒50銭ほどだったのに対し、カンロ飴は1粒2円であった。そして、1粒ずつセロハンで包装するという試みも先駆的であった。