日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

そのしぐさの裏には企みが

 

どんなにいいお話をしようとしても、相手の人は話そのものよりも話し手の表情やしぐさ、そして服装などへ9割以上の関心が向くということなのである。

<家族が言葉を交わさなくても、いま誰が幸せで、誰が傷ついているか全部わかった>と言ったのは、映画監督・大林宣彦さん。木と紙の家が育てた日本の文化は“気配”に敏感なのである。建材が多様化した今でも、気配の文化はそう変わることはないだろう。

歌舞伎における“しぐさの華”とは、細部の組み合わせで、ひとつひとつの仕草を極めることだという。

言葉にしなくても、仕草や動作で通じ合えることは多いだろう。ブログなどでも、コメントを通じて話したことがなくても、☆の付け合いでわかり合えたり、長いお付き合いの感覚にもなっている。

野球のテレビ観戦では、捕手が(バッターボックスの)相手打者の一挙手一投足を、必ず観察している。そのしぐさで相手の狙いを探り、投手のリードを模索する。やはり、頭のいい捕手を見るのが大好きである。

 

1394

 

名人の幇間(ほうかん=たいこ持ち)は、客が手洗いに立つと、一緒についていくそうだ。そして、外で待ちながら、用を足す客に話しかける。客が我に返るのをじゃまするためだという。じゃまをしないと、客は子供の寝顔を思い浮かべたりして“里ごころ”を起こすようだ。

幇間というと太宰治さんを連想してしまう。幇間の本質を理解した作家。ときとして、自身を幇間として例えることもあったような記憶がある。

トイレが文章を練るのにも最適の場所とされてきたのは、人を<冷静な心持ちにさせる空間>だからだろう。最近は外出でも、冷静になれない空間に出くわすばかりのような気もするが。

 

1395

 

侍を演じる長谷川一夫さんが正座すると、腿に置いた右手は左手よりも少し前に出た。
いざという時、刀に早く手が届くよう、役になりきっての工夫である。

<右を斬るときは左を見ろ。左を斬るときは右に顔を向けろ。強そうに見える>。
時代劇の役者にそう教えたのはマキノ雅弘監督である。撮影現場には時代劇ならではの知恵が数限りなくあったはずである。

江戸しぐさ」という言葉がある。江戸時代の日常生活で、無用ないさかいが起きないよう、江戸の町民たちが身につけていた独特のしぐさのことだという。例えば、往来で傘をさしてすれ違う際、相手に雨水をかけぬよう、人々は互いの傘を反対側に傾けあう習慣があったというのだ。

しかし、偽史偽書研究が専門の歴史研究家・原田実さんは、著書『江戸しぐさの正体』にて<江戸しぐさなどというものは存在しなかった>と断言している。

 

1396

 

江戸しぐさが知られはじめたのは1980年代だという。ある人物が突如その存在を喧伝し始めたが、江戸時代の文書には記録が残っていない。

運動を広めている人たちの言い分は、江戸しぐさが長年忘れられていたのは、「明治維新の際、官軍による大規模な『江戸っ子狩り』が行われて口伝の伝統が途切れてしまったから」といった説明をしているとか。

「傘かしげ」について、当時の傘は高級品で、傘を持つ人がすれ違う場面はそれほどなかったはず。和傘は容易にすぼめることもできるため、わざわざかしげるのも不自然である。

<時泥棒は十両の罪、という言い回しで時間厳守が説かれていた>との話でも、正確な時計などない時代に不可能なことだ、と切り返した。

近年の映画などを通じて<昭和30年代は人情に満ちた良い時代だった>というイメージが描かれたが、犯罪の発生率などを考えても、<当時は今より良かった>とはいえそうにない。

現代という時代が抱える様々な問題で、“古き良き昔”を手本にと、自らを鼓舞したくなってしまうのかもしれない。しかし、江戸しぐさを信じてしまう心理の背後に、事実はどうあれ、ともかく“日本人は素晴らしい”と、胸を張りたい願望があるのだとすれば、しぐさとのギャップは大きくなりそうである。

 

1397

 

欧米人の「肩をすくめる」しぐさはよく見かけるが、日本人には見かけられない。
評論家・多田道太郎さんいわく<不快な時、困った時、疑惑を感じた時、西洋人は肩をすくめるが、あれは接触拒否の身ぶりがしぐさとして定着したものと私は考えている>とのこと。

かつてベストセラーになった『「NO」と言える日本』がなつかしい。
1989年、日本の経済発展の中、ソニーの元会長・盛田昭夫さんと石原慎太郎さんによって共同執筆されたエッセイである。

日本人は西洋の人より、拒否感をそれとなく伝えることが苦手という指摘でもある。
今の時代も、メールやLINEで、「NO」と伝えられないため、大きな事件に発展するケースが増えている。LINEなどの便利なツールが出てきても、拒否感をしっかりと示せない体質は、昔とまったくちがっていない。

<疑惑を感じた時>など周囲が気づいて、拒否の方向に背中を押してあげる手だてがほしいものだ。<便利な道具をみんなが手ばなさないから、犯罪が起き続けている>、ということでは決してないと思っている。

本来、しぐさに敏感だったはずの日本人なのだから、言葉にしなくても“しぐさのキャッチ”ボールができるのではなかろうか。そして、そのために必要なものはおたがいの信頼感にほかならないはずである。