日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

一生懸命の中にあるユーモア

 

義務教育を終え、最初に得た仕事は牛乳配達であった。その後、イギリス海軍に従軍するが健康上の理由で除隊し、トラック運転手、労働者などいくつもの仕事をしながらボディビルジムに通う。

1953年、ミスター・ユニバース・コンテストの重量上げ部門で3位入賞した。その時の出場者から、演技の道へとの進言を受け、翌年からテレビや劇団に出演するようになる。

スコットランド出身の俳優 ショーン・コネリーさんである。
映画『007』の初代ジェームズ・ボンドを演じた際、スコットランドなまりの矯正をいやがった。スコットランド人としての誇りが強く、そのアクセントを矯正したことは一度もなく、ジェームズ・ボンド役を引き受ける際もアクセントを矯正しないことを絶対条件とした。

<私は自分のアクセントが好きなんだ。俗に言う“英語”なんてものを話すのはごめんだ>。インタビューでのコメントである。

原作小説によるボンドのイメージといえば<英国上流階級育ちの諜報部員>であるのだが、そのエピソードで雰囲気は一変した。日本でいえば、関西弁を話す浅見光彦ということだろうか。

 

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没後92年になる初代・快楽亭ブラックさんは、英国人の両親を持ち6歳で来日した。
“べらんめえ言葉”を見事にあやつり、当時は三遊亭円朝さんと人気を二分したといわれる。

<どうもこの芸、こいがその天然でして、習ってできるものではありやせん。そいに勉強が肝心です>。
ユーモアやトンチは人に教わるものではなく、勉強し、磨きをかけることが大事だと言っている。

本物の芸達者だったようである。伝統ある芸で“異人さん”に出し抜かれ、ほろ苦い酒を口にしただろう当時の噺家(はなしか)たちを、今の相撲に重ねてみてしまう。

相撲の技量だけでなく、外人力士それぞれの個性がおもしろく、思わず見入ってしまう。
力士の逆輸入というか、日本人の若手力士も彼らから影響を受けて、個性豊かな力士が育ち始めているようだ。

 

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今は死語なのかは知らぬが、“男は度胸、女は愛嬌”といわれた。しかし、男も愛嬌があるに越したことはない。

<“可愛気(かわいげ)”にまさる長所はない。才能も智恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には叶わない>と、述べたのは評論家の谷沢永一さんである。

この話ですぐに思いつくのが、あの長嶋選手である。デビュー当時から今も持ち続ける「お茶目さ」は半端ではない。同チームのみならず、ライバルチームの先輩、後輩からも可愛がられ慕われた。

大相撲の元大関エストニア出身の把瑠都関なども、長嶋さんの系統であった。
勝ち相撲のあと、花道を引き揚げてくるときは、昆虫を捕まえた少年のような笑顔になっている。

自分のひいき力士が彼に負かされても、まったく憎めない。早くに父親を亡くし、女手ひとつで育てられたと訊けば、彼の笑顔に心を惹かれ、土俵を見守ってしまうファンもいたはずである。膝の古傷が完治せず、一昨年に惜しまれつつ引退をした。

 

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今年の5月、大相撲夏場所10日目で、平幕・臥牙丸(ががまる)関は横綱日馬富士を破り初の金星を手にした。<ボク勝ったの? 信じられない。金星は一生残るし、めっちゃうれしい。神様、ありがとう>と、テレビインタビューで歓喜爆発ぶりのコメントであった。

インタビューで、神様にお礼を述べた人を見たのは初めてであった。
「これだけ喜ばれたら(負けた)日馬富士も本望だろうね」。
これは、北の富士勝昭さんの粋な名解説であった。

臥牙丸関は、故郷ジョージア(グルジア)で病気療養を続ける一人暮らしの母に毎日の電話連絡を欠かさないという。
相撲とは勝敗で感情をあらわにしない“抑制の美学”なのだそうだが、外国人ならではの、感情表現を見るのがとても楽しい。

 

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こちらは物騒なユーモアで恐縮であるが、10年前にあったお話である。
公務員の女性(32)が、不倫相手の奥さんを殺害するようにと、(自称)探偵業者に依頼し、逮捕されたという。

<多額の事前報酬を支払ったのに殺人が実行されない>と業を煮やした公務員女性が、「だまされたのでは」と警察に相談し、事件が発覚したのである。

「それはお気の毒だ、被害届を急いでお出しなさい」。警察がそう言ってくれるとでも思ったのか、その女性はとにかく必死で警察にすがりついた。

女性の供述では、インターネットの犯罪請け負いサイトで業者と接触したという。選ぶ業者によっては殺人が実行されていたかも知れない。

いったん浮かんだ邪悪な意思にすぐさま、現実への通路が用意されるというのがネット社会なのであろう。どこで誰が悪意の牙を研いでいるか、知る事のできない日常を人は生きている。このユーモアにおいては、あきれた笑いとともに背筋が冷たくなってくる。