日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

言いたい放題の爺さんを敬(うやま)うメガネとは?

 

時事放談』(TBS)というテレビ番組の第1期は1957年~1987年だという。その第2期は2004年から今も続いているので、かなりの長寿番組といえる。

さて、子どもだった私はこのタイトルを見て、「時事」は“爺(じじい)”からの造語で、番組に出てくるお爺さんたちが、日曜の早朝から言いたい放題しゃべり合う番組だと思い込んでいた。

 

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そのような思い込みは、いい歳のおとなになっても尽きない。若いころから本はよく読んだ。乱読ばかりではあったが、わからない言葉の対応にと、手元に辞書を置いていた。今ならタブレットがその辞書替わりになってくれる。

むずかしい言葉だとすぐに調べるが、かんたんな言葉は(勝手に)わかったつもりになり、あとで困ることがよくある。
要するに、長期にわたる思い込みになり、間違いの訂正がむずかしいのである。

 

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「舌鼓」(したつづみ)を“したづつみ”と読んでしまうクセ。
「手持ち無沙汰」(てもちぶさた)を“てもちぶたさ”とつい言ってしまう。

好きだった太宰治さんの「桜桃忌」(おうとうき)は、私の頭の中で“おうとうひ”と、ずっと変換されていた。

今でも、依存心(いそんしん)を“いぞんしん”と信じているし、更迭(こうてつ)はどう考えても“こうそう”なのだ。

 

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職場などで、なにかの表明のとき、人前にて大声で発表することがある。そのときに出てくる「遵守」(じゅんしゅ)などは“そんしゅ”に思えるが、事前に確認して事なきを得た。

その後、先輩などが堂々と“そんしゅ”と読みあげて発表しているところに出くわすと、あとでそっと教えてあげる。そのときの自分は、上から目線のドヤ顔になっている。

仕事関係の言葉でも、わかったつもりの読み違いはとても多い。
たとえば、「記す」(しるす)を“きす”。「あり得る」(ありうる)を“ありえる”と。
文字どおり、あり得ないと思っても、あり得るから困るのである。

早急(さっきゅう)は日常でも“そうきゅう”と当たり前に使ってしまう。
重複(ちょうふく)は“じゅうふく”、代替機(だいたいき)が“だいがえき”。貼付(ちょうふ)を“はりつけ”と。今も当たり前に使っている。私ってなんてバカなのだろう。

 

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顧客店のバザー出店でお手伝いに行ったとき、異業種のメーカーの方が手書きでポップをスラスラと書いていた。その商品はメガネであるが、そのポップに誤字が見つかった。

「老眼鏡」と書くべきところを“労眼鏡”となっていたのである。
私がそのことを指摘したら、その方はなにも言わずニヤニヤと・・・。

ふしぎに思い、そのポップをじっくり見直していて意味がわかった。
“労眼鏡”=“ご苦労様の意味をこめた老眼鏡”なのである。

それがわかり、私はほのぼのとした気持ちに包まれた。

その後も同様のケースに遭遇した。そちらでは、「老眼鏡」と書いて“老”の字に×印を付け、その上に目立つ色で“労”と書き足してあった。
こういう楽しい書き間違いや読み違いなら、いくらあっても大歓迎である。