日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

満開の桜と菜の花の2ショットが現れるとだれもが笑顔にさせられる

 

昔、桜は陰性と訊いて、ずっとそう思い込んでいた。陰性の桜は人を集めて陽気に振る舞われるのを好む。梅は陽性で、人が静かに佇んで観ることが多い。そういえば、梅の花見を大人数でやったことがある。しかし、梅の時期の寒さのため、日本酒をいくら飲んでも寒さで震え、盛り上がらなかった。

ところが、ネットで桜を調べてみると、桜も梅と同じ陽性みたいなのである。

陽樹(ヨウジュ)と陰樹(インジュ)という名称であるが、陽樹は、光の量つまり太陽がたくさん当たらないと育たない樹木のこと。陰樹とは、光の量が少なくても育つ樹木のことだとか。森林ができるとき、まず草原に陽樹が育ち始め陽樹林となり、成熟してくると地面に太陽があたらなくなり、そこへ陰樹が入り込む。陰樹は光が嫌いではないので、陽樹の隙間に明るい場所があれば、そこから生長していき、やがて(陰樹が)勢力を広げ陰樹林となり安定していく。

 

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森や林を観て、アカマツクロマツが多ければそこは若い森林。カシやシイ、スギ、ブナが多ければ年を取った森林、ということになる。自然というものは実に理にかなっている。

 

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また、家相風水として、陽木と凶木という呼び方もあるようだ。幸運を呼ぶ陽木と禍を招く凶木という分け方をされているが、こちらでも桜と梅は陽木に属されている。それでも、ネット検索によっては、桜が陰木であるという見解もある。

桜の木は、花見の印象等で明るく感じるかもしれないけれど、実は「陰木」なのだ、と。「陰木」の下で陽気に騒ぐから、そこでバランスがとれているという。また、年間で一週間か十日くらいしか花の咲かない木は、長い目で見たら「陰」ではないだろうか。それも一瞬だけ白い花がぱっと咲き、ぱっと散る。だから「死」や「狂気」とも結びつけられる。

 

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「桜」をテーマに歌った楽曲は多い。そのどれもが、さわやかである。「桜」の小説はどうかと考えると、必ずあのおどろおどろしい2編が浮かんでくる。梶井基次郎さんの『桜の樹の下には』と坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』なのである。

まず、「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と言い切る『桜の樹の下には』は強烈である。「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている」となると、あいた口がふさがらない。あの美しく咲き誇る満開の桜の養分は人間や動物の死骸だったのか。墓地できれいに咲き並ぶ桜がオーバーラップしてくる。

 

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桜の森の満開の下』では、「花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です」で始まり、「陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色」になると訴える。ずいぶんむごたらしい男の山賊は「街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖しくなって気が変になりました」と言う。また、「花の下は涯(はて)がないからだよ」とも。

「彼はひそかに出かけました。桜の森は満開でした。花の下の冷めたさは涯のない四方からドッと押し寄せてきました。彼の身体は忽(たちま)ちその風に吹きさらされて透明になり、四方の風はゴウゴウと吹き通り、すでに風だけがはりつめているのでした。彼の声のみが叫びました。彼は走りました。何という虚空でしょう。彼は泣き、祈り、もがき、ただ逃げ去ろうとしていました」と、いかにも安吾さんらしい語り口である。

 

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それにしても、満開の桜から感じる冷たさがよくわかる。満開の桜の下にいる不気味さや怖さのようなものも。それを思えば桜は陽性ではなく、限りなく陰性に近いと感じてくる。

桜の花見はかなり大げさでめんどうだが何度も行(おこな)った。その反動が大きいのか、この数年は菜の花の良さに目を向けている。桜と菜の花の2ショットで、桜をしっかりと押さえ込む菜の花が、ますます好きになってきた。

 

今週のお題「春になれば」