日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

フィルム写真の終焉直前に業界の現場ではデジタルカメラなど眼中になかった

 

100年以上の歴史ある銀塩写真が崩壊した要因は、デジタルカメラの需要がフィルムカメラを上回り、銀塩写真の必要性が失せたということである。だれもがご存知のことと思う。さて、そのときの業界の現場ではなにが起きていたのだろう。

それ以前のロールフィルムの需要はどうであったか。1990年代後半は出荷本数が4億本を超え、1997年(平成9年)から1998年(平成10年)では、日本国内で最多の約4億8283万本を出荷していた。そして、デジタルカメラの普及で売り上げが激減。

全盛期の10年後である2008年(平成20年)には、10分の1近くの約5583万本にまで落ち込んだ。

一部のフィルムメーカーでは倒産や写真フィルム事業からの撤退。存続のメーカーでもラインの縮小という事態に陥っている。カメラ用フィルムの製造には巨額の設備投資が必要なため、一度廃業すると再生産は極めて困難といわれている。

ちなみに、最盛期に大手フィルムメーカー3社といわれたのが、富士フイルムコニカ(Konica)、コダック(Eastman Kodak Company)である。

 

 

デジタルカメラが登場する少し前から、カラーフィルム写真の業界では、写真専門店と(それ以外の)アザー店との不透明な境界をめぐる問題が勃発していたのである。

大手3社のメーカーラボ以外のラボが、アザー店を中心に価格競争を仕掛けた。そのため、専門店の売上げが落ちた。そして、専門店を庇護する立場のメーカーラボも「背に腹はかえられぬ」とばかりに、アザー店へ喰い込み、価格競争に参戦するハメになった。

そもそも、フィルム写真の現像料とプリント料金にはからくりがあった。プリントよりも現像料の利幅が大きいのである。その兼ね合いで、5円や0円プリントの店頭看板が続出した。プリントを0円にして、現像料の大幅値上げをするところもあった。

その状況を指をくわえて眺めるしかなかった専門店も、フィルムメーカーの甘い囁きに乗せられ、店舗でカラー写真の現像とプリントができるミニラボという機器を導入し始める。

メーカーラボの即日仕上げより、早い仕上げ時間を売りにして、安売りのアザー店に対抗した。初期投資金はかかるが、現像料の利幅で補えるという目論みもあったのだろう。しかし、古くからの写真店や狭くてミニラボが置けない店舗は、導入もできず売り上げも落ちる一方で店を閉じた。格安アザー店も、売り上げが伸び悩み、市場のバランスがどんどん崩れて、収拾がつかない状態になっていったのである。

 

 

業界全体で自分の首を絞めるような状況に憂慮したのか、逃げ道としての打開策が持ち上がった。「アナログとデジタルの融合」と、中身のないテーマを掲げた新商品である。それが、APS(アドバンストフォトシステム)なのである。富士フイルムイーストマンコダックキヤノンミノルタニコンによって共同で開発。

「世界標準規格の新しい写真システム」などと鳴り物入り。レセプションもお金をかけ派手に敢行された。なんといっても、新時代の写真が幕開けなのである。しかし、なにかがちぐはぐであった。招いたお客さんに対して、業界の担当セールスたちは的を得た説明ができていない。私にはその原因がよくわかっていた。パソコンなどさわったこともなく、デジタルなどときくと、はるか異次元の世界に思うような者ばかりなのであった。

そして、APSフィルムは1996年4月に販売が開始された。はたしてどれだけの方がAPSを利用されたのであろうか。ちなみに私は業界の人間なので、APSのカメラとフィルムは売った。自分でも購入している。しかし、撮ったという記憶がほとんどない。もしかして、テスト撮りの一回だけだったのか。そんな「新しい写真システム」であるはずのAPSフィルムも、2012年5月末をもって終了したらしい。

APSの残したものといえば、デジタルカメラの固体撮像素子のAPS-Cサイズという名称だけだったのであろう。思えば、APSという新規格をメインにできれば、安売りプリントやミニラボでの処理を抑止できて、メーカ-ラボ復活やメーカーのプリントで統一できる、というメーカー側の思惑であったようだ。ユーザーの要望など無視しているともいえる。

 

 

1995年に民生用デジタルカメラCASIO QV-10が登場して話題になった。カシオが発売した6万5000円ほどのデジタルカメラである。画素数は25万画素で、当時のフィルムカメラと比較するほどのものではなかった。当時、私は42万画素のビデオカメラをよく使っていて、画素数にはシビアであった。プリントに耐えられるシロモノではないと思った。

周りの人たちも、デジカメならLサイズも満足に焼けないだろうと楽観視していた。
仮に画素数が大きいとしても、出たばかりのWindows95機のスペックでは脆弱すぎた。DOSの時代、名作といわれたVZエディタの容量は、今の写真1枚以下である。当時のパソコンからは大容量すぎた。

しかし、デジタルに対するお粗末な対応のフィルムメーカーへデジタルカメラの切り込む隙は大有りだったようだ。PCのスペック向上とメモリやHDDの容量も格安になってきた。100万画素を超えるデジカメが出てから、ようやく業界の人間にあせりが出始めた。

 

 

フィルム写真がデジタルに移行する時期は、デジタルを体験しているのとそうでない者との体温差が大きく分かれた。私の場合、さんざんネット仲間とオフ会をやり、その遊びの中から危機感を持った。ある夜、オフ会後に東京駅で大阪の仲間をお見送りして、もう1軒カラオケを楽しんで自宅へ戻った。そしてパソコンを開いたら、大阪の仲間がついさっきの写真をネットにアップしていた。フィルム写真ではこういう芸当がまずできない。

デジタルに疎いフィルムメーカーの発想は的外れで、自分たちの足元も見えず、肝心の手が打てていなかった。業界内にデジタルを理解できていない者がほとんど。某大メーカーのセールスと飲みながら話をしてあきれ返った。「パソコンを使う人はほとんどいないのだから世間にデジタルが浸透しないだろう」と訊く耳を持たない。一部の技術部門の方だけが熟知している程度であった。パソコンで文字を入力したり、表計算を使うくらいのことで恐れをなしている人に対して、インターネットで、瞬時に写真のやりとりをしている我々の話が通じないのである。

フィルム写真が全盛時、当時のフィルム代や、現像&焼き付け料金は決して安くなかった。今は4百枚くらいかんたんに撮っているが、仮に360枚でフィルム写真の場合に換算してみた。写真専門店へ注文する場合、(フィルム込みで)2万3千6百円になった。デジタルではそれらがすべて無料である。

こんな高額な料金をカメラユーザーから得て、さんざん潤ってきた業界なのである。多くのお客さんが撮り終えたフィルムを、加工現場に集めたときの毎日の量はものすごいものであった。あれがすべて消え失せても、写真というメディアは益々発展している。それがふしぎでとてもおもしろい。