日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

今日の「今」に秘められる「一期一会」

 

「一期一会」とは、「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものである。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という、千利休の茶道の筆頭の心得である。
その意味をもっと掘り下げてみると、「これから何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれない、という覚悟で人には接しなさい」ということである。私は、こちらの解釈が大好きである。
生涯に一度限りの大切な出会い。その特別な瞬間が訪れたとき、私は案外ボーッとしているに決まっているからである。

 

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そして、「一期一会」はぜったい「今」にあると思っている。
ふだんの(あたりまえのことの)中にこそ、気が付かない「一期一会」がたくさん含まれているような気がする。親と過ごす間。子どもと過ごす間。これも「一期一会」。
訪問営業で多くのご家庭を見ている。この数年はとくに、ご夫婦ふたりやおひとりで生活をされている方たちが増えている。親子三代でにぎわったご家庭、お子さんが多くにぎやかだったご家庭が、今はひっそりとしている。かつてのにぎやかさは、つい昨日のようだった、とおっしゃる方がとても多い。

 

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バブル景気で浮かれているとき、人手不足のためよく働き、それ以上によく遊んだ。みんなで、あのにぎやかな「今」がいつまでも続くと思っているのだろうか。それをながめながら私は、長く続かないだろうと自分に言い聞かせていた。だれだって、その中に身を置きながら「今」しか生きられない。そういうときにも「一期一会」なるものを漠然と感じた。

 

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一番若い日は今日であり、残りの人生の最初の一日でもある。』というエントリにも記したが、最近とくに、人生は「今日」の「今」の連続である、と強く思う。産声をあげたときや息を引き取るときも、そのときの「今日」の「今」である。
「今」のこの瞬間のドット(小さな点)がつながって線になる。それが人生なのではないだろうか。今このときの大切さ。今この瞬間のおもてなし。今って捨てたもんじゃない、という気持ち。こういうものが「一期一会」に共通するなにかを感じてしまう。

 

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今日と明日の境目として、睡眠があると気が付かないけれど、仕事や遊びで徹夜してみると、「今日」の「今」がずっと続いている、という意識になれるだろう。
それと、人との出会いだけではなく、「今」の自分と出会うこともなによりの「一期一会」だと思う。売れっ子だった芸能人や歌手の方たちが、頂点の時期を回想してみると、まったく憶えていないということがよくある。まるでそのときは、自分自身がコントロールできていなかったみたいなのである。
自分の顔が肉眼で見られないように、他人の時間は見えても自分の時間が見えない。こういうこともあるような気がする。『「今日」の「今」が常に「一期一会」』という気持ちを、自分自身に向けてみても、決しておかしくはないはずである。