日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

決してのぞいてはいけません

 

村上春樹さんの『アフターダーク』にある。<眠れないのかもしれない。眠りたくないのかもしれない。ファミリー・レストランは、そのような人々にとっての深夜の身の置き所なのだ>と。深夜の“ファミレス”が重要な舞台になる長編作品だ。

戦後大きな反響を呼んだ日本研究の『菊と刀』の中では、アメリカの人類学者がおもしろい指摘をしていた。日本人は“容赦なく眠りを犠牲にする”のだと。

もともと睡眠好きで、眠っていい時には喜んで眠りにつく半面、必要とあらば軍人も受験生も夜通しでがんばる。

批判もあった著書だが、寝る間を惜しんで復興を成し遂げた日本の働き手の戦後の足跡を思うと、ふに落ちる。

“人と人を結ぶ絆にはさまざまな形がある”とは、作家・五木寛之さんの言葉。仲間との団結を深める明日への“夢”と同じくらいに“思い出”が重要な役割を果たしているとのこと。

 

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世の中、接する人が気の合う人ばかりというわけにはなかなかいかない。必ず、どうも苦手だなと思う人がいるもの。新幹線の車内販売員だった茂木久美子さんの著書に対処法がある。

乗客が自分の態度や物言いを嫌う場合、自分も相手に苦手意識を持ち、乗客に伝わってしまうもの。それでは商売にならないため、想像力を働かせたという。乗客にもいろいろ事情があるはず・・・と、好意を持てるように努力をした。

さて、こちらは心理学で知られた実験だという。たとえば7人が一室に入り簡単な質問を順に答えるとする。実のところ6人がサクラでわざと誤答するのだ。そこで、7人目の被験者はどう答えるのか。

研究によれば、周囲に引きずられて誤答する人は少なくないらしい。そんな人間の同調行動を調べる実験の中で、自分が思う本当の答えを口にする時には勇気がいるものだろう。

 

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悲しき人の性(さが)なのか。「決してのぞいてはいけませんよ」と言われれば、ますます見たくなってしまう。それは人の物に限らず自分の手の中にあるスマホにも当てはまる。とにかく見始めたらキリがなくなる。

昨今の「サラリーマン川柳」の入選作にもスマホやデジタル機器に関するものが増えている。裏を返せば、世間についていけない中年男性の哀感が漂うからネタには事欠かない。

<おじさんはスマホ使えずキャッシュです>。この居直り感がたまらなくうれしい。<アレクサは何科の草か孫に聞き>。この句をみて慌てて調べたおじさんもいるような。

AIスピーカーなど音声で、家電などを操作することで「アレクサ、何か音楽かけて」などと話しかけると曲が流れる。とても便利なAI(人工知能)の身近な機能のひとつであるが、この便利さにとまどうところがなによりも楽しい。しみじみ思うが、つねにバタバタしているのが人生の本質なのかもしれない・・・と。

 

豊かになっても人々は忙しい

 

“タフガイ”が石原裕次郎さん、“マイトガイ”は小林旭さん、そして“トニー”こと赤木圭一郎さん。もうワクワクしてくる。そこへ“キッド”の和田浩治さんを加えて「日活ダイヤモンドライン」と名乗った。日活は1960年代にこの4人の主演作品をローテーションにして大入りを取った。

無国籍な世界とアクションを求め、熱狂した時代があった。今は配信のアマゾンプライムで当時の作品をたくさんテレビで観られて楽しい。画面に映る各地の風景は(東京も含め)とてものどかで懐かしい。

あの当時を遡り、1950年の第1回お年玉付き年賀はがきの特等賞品はミシンだったという。ミシンの価格は約1万8千円で、会社員の初任給3千~4千円と比べても高級品であったそうな。その時の1等は純毛洋服地で2等が学童用グローブ。

 

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敗戦の混乱が残る1949年に、この制度を考えたのは京都に住む民間人だったという。家族や親類、知人の間でも消息がわからない人たちが多くいた。戦前の年賀状が復活すれば差出人、受取人ともに消息をわかり合える。

さらにお年玉を付ければ多くの人が利用するし、寄付金を付けると社会福祉にも役立つ。その思いから、旧郵政省にアイデアを持ち込んだのだ。

最高賞品の推移でも世相を反映しているらしい。1956年に電気洗濯機、74年にはラジオ付きカセットテープレコーダー。そして84年には電子レンジも登場。

今は物に溢れる時代なのか、定額を払い一定期間のサービスを受ける仕組みのサブスクリプションなるものが、インターネットでの音楽聴き放題や映画・ドラマなど動画の観放題なども主流になりつつある。現物ではなく利用権を買う方式なのだ。

さて、作家・山口瞳さんは大の左党であり、行きつけの店を学校に例えていたらしい。味だけでなく、働く人の仕事ぶりも知ろうとした。多くを学び取り、珠玉の文章のヒントにしたという。

 

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山口さんいわく<従業員の気ばたらきのいい店の料理は、これはもう間違いなく美味なのである>とのこと。そして、とくに好物でないものを出す店でも、人が気に入ればとことん通った。店主の人柄が気に入る人もいれば、店の雰囲気に引かれる人もいる。

そうなれば週1回が3日に1回、1日おきとなり、気が付けば毎日と。そんなパターンが多いらしい。

現在はとくに、サービスの充実が労働時間を増やし、忙しくなった人たちはよりきめ細かなサービスを求められるようになる。すると労働時間がどんどん増えていく。

便利な社会になった裏で、コンビニエンスストアファミリーレストランの24時間営業や商品の即日配送などが、そんな循環で取引先企業を巻き込んで根付いていったのだろう。

日本流サービスの心地よさは海外にも響き渡り、米コンサルティング会社がまとめた2019年版「世界で評判の良い国」では日本が11位だった。

1~10位は福祉政策の充実した欧州勢が中心で、日本より経済規模の大きな国はないという。

“豊かな国”の日本も、サービス充実に行き過ぎたところもあり、払った犠牲は小さくない。たしかに家族連れのいない真夜中のファミレスもどこか不思議だ。最近始まったサービス見直しの動きも、なにかチグハグなような気もする。

 

口先がうまくても真心のない

 

私の好きな俳優のジャック・ニコルソンさんは、米映画『アバウト・シュミット』(2002年)にて、妻に先立たれ一人娘も慌ただしく嫁いでしまった父親の孤独をすばらしく演じていた。

<歴史の中でわれわれはとても小さな存在だ。それでもせめて何かの役に立てたらと願う。だが私は一体何の役に立てるだろうか>。定年退職した男の悲哀を描いた名作にはすてきなセリフもある。

今日という日は再びなく、会った人と再び会えるとも限らない。一期一会。茶会は毎回、一生に一度と考え、客に尽くすべしとの茶道の心得だという。それは、出会いの大切さを説く言葉である

 

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当人は正しいことをしているつもりでも、周りでは不格好で滑稽に見えることがある。かつての正月遊びである福笑い。随筆家・白洲正子さんは、それを実社会にもたとえていた。

<丸い卵も切りようで四角、物は言いようで角が立つ>。口先がうまくても真心のない“巧言令色鮮し仁”は「論語」の一節だという。

「巧言令色」とは言葉を巧みに飾り、顔つきや態度をもの和らげて美しく見せること。続く「鮮(すくな)し仁」は、人間の根本の道である仁の心に欠けるの意だ。

現代語では「美しい演説はいらない」ということか。『国連気候行動サミット2019』で言ったのはグテレス事務総長である。温暖化への強い危機感からだった。

 

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開催に先立ちグテレス氏は各国首脳に、地球温暖化に対処するための“美しい演説”ではなく“具体的な計画”を用意するよう求めたそうな。

これに応えるべく日本政府も安倍晋三首相(当時)が演説し、取り組みを報告したい意向を伝えた。しかし協議の結果、国連側から断られたという。

あの嘘つきトークが事前に察知されたのかもしれないが、安倍さんの演説はグテレス氏の嫌いな“美しい演説”だったらしい。

演説は美しければいいというものではなく、問題はその中身。そして、温暖化防止への“具体的行動”が必要だ。

世界的潮流の“脱石炭”に後ろ向きで、石炭火力発電を推進している日本の首相が演壇に立って報告すれば、大ブーイングに包まれたかもしれない。

社会全体にまき散らされるフェイクニュースやフェイク情報も厄介きわまる。アメリカの前大統領も然り、自分の都合のいいことだけを強調して、反対意見や情報をフェイク扱いや不正だとわめき続けた。

反対にメモの棒読みだけで、自分の意見を主張できない日本の現首相も情けない。なにを言っても心がまったく感じられないのである。わが家にある数台のAIスピーカーの方が、よっぽど人間的で温かい会話を提供してくれる。

 

聞く力と聞かない力の違いは

 

エッセイスト・阿川佐和子さんは、インタビューで相手から「話したら、自分の頭の中の整理がついた」と言われることがよくあるという。

考えをまとめるように意識して質問することはない。「ちゃんと聞いていますよ」という合図を相手の話の間にを入れ、「もっと聞きたいです」とのサインを出すことを心掛け、ひたすら聞くのだという。

そうすると、自然に相手が内に秘めた思いを話してくれるそうな。

さて、あの寅さんが東京の葛飾区役所とおぼしき役所に、佐藤蛾次郎さん演じる源公を連れ立って現れた。

玄関の脇に小さな箱を見つけると、交互に口を近づけて「あーあっ」・・・と。「みなさんの声をお聞かせ下さい」と箱には大書されていた。

「なんにもねえな」とふしぎそうな寅さんの姿が笑いを誘う。『男はつらいよ』シリーズには落語のようなシーンが多々ある。

 

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映画監督のほかに、多くのシナリオも手掛けてきた山田洋次さんは、脚本と建物の設計図の違いを述べている。

設計の完成で建物は、最終的な形がほぼ想像できる。そうでなければ人が安心して住めない。映画だと脚本が骨格でも、俳優らとの話し合いで筋が固まるとのこと。

<大勢のスタッフや俳優が顔をつき合わせて、共通したイメージを探り合っていく仕事>とするのが山田監督の映画づくりらしい。

そして監督は、スタッフらを見ながら「それは違う」と、ときたま言っていればいい・・・のだとも。

千と千尋の神隠し』に抜かれるまで、ある映画が36年間も観客動員1位だったという。1964(昭和39)年の五輪を描いた、市川崑さんが総監督の『東京オリンピック』である。

 

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初めて見たときの感動は、今も胸の奥にある。鍛えられた選手の素顔にカメラが肉薄していて、古関裕而さん作曲の行進曲にも熱くなる。

そういう作品でも公開に至るまでに横槍はあった。

従来の“記録映画”とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げたことで、「芸術か記録か」という大論争を引き起こすことになったのだ。

完成披露試写の2日前におこなわれた関係者のみの試写会では、オリンピック担当大臣の河野一郎氏が「俺にはちっともわからん」、「記録性をまったく無視したひどい映画」とのコメントで、「記録性を重視した映画をもう一本作る」とまで述べた。

コロナ禍の今も政府の感覚はこんなもので、国民によくわかることが見たり聞いたりできないようだ。そもそも“聞こう”という意識など皆無なのかもしれないが。

 

バブルに沸いた30年前と今

 

“興味深い”や“楽しい”ときの「面白い」は、奈良時代以前から使われていたという。もとの意味は、目の前が明るくなった状態とか目に見える景色の美しさを表す言葉だとか。

かつての日本では夜に家族が炉端に集まった。誰かが“男女の密会の目撃談”などを始めると、全員が一斉に顔を上げ「えっ、ホント!?」と盛り上がる。

うつむいていた人たちも、囲炉裏の火に照らされて(みんなの)顔面が白く光って浮かび上がる。思わず興味を引かれる話題のことで“面が白く”なるから「面白い」・・・と。もちろん俗説らしいが。

「自分の額にEという字を“相手が読めるように”書いてみてください」。米ノースウエスタン大学での実験である。(他の人に比べて)ある種類の人は3倍ほど正確に書けなかった。

それは自分に権力があると考えている人たちで、人から見てカタカナの「ヨ」のような裏返しの「E」を書いた。権力を持つ人間は他者との共感力が弱く、人からどう見えているかが理解できないため・・・だとか。

 

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日本がバブルに沸いた約30年前、映画大手コロンビアをソニーが買収し、激震がアメリカ国内に走った。音楽大手CBSレコードもソニーの傘下に収められていた。

アメリカが誇る映画と音楽というソフト産業の名門を、日本企業が簡単に札束で手にした。アメリカの魂を買ったといわれ、不評だったその要因はよくわかる。

しかしその後、日本の製造業は長い冬に入り、アメリカのソフト産業に磨きがかかることになる。インターネットの普及でIT大手が成長し、今は「GAFA」と呼ばれて世界のデジタル市場を席巻する。

「亭主元気で留守がいい」という、CMキャッチコピーが流行語大賞に選ばれたのも30年以上前である。日本の景気は絶好調で亭主たちも元気に仕事をして、お遊びも盛んだったのか。

とはいえ、あのキャッチコピーの意味には科学的根拠もあるらしい。ある心療内科医が60~84歳の高齢者3100人の老後を5年間追跡調査したという。

その報告では、老後も夫と暮らす妻の死亡率は夫がいない人と比べて2倍。一方で妻と一緒の夫の死亡率は、妻に先立たれた人などの半分以下だったようだ。

 

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定年退職などで夫が家にいるようになると、妻が体調を崩す「亭主在宅症候群」というのがあるそうな。その中で「昼食うつ」が多く、自分だけなら簡単に済ますのに、わざわざ夫のために昼食を用意するのが強いストレスとなるらしい。

リタイア後に悠々自適を楽しみにしていた夫の夢も、奥さんにとっては「白昼の悪夢」と化すのだ。

「眼鏡、眼鏡・・・」と部屋中を探し回り、鏡を見ると頭に眼鏡が載っているエピソードがよくある。私もたまにやる。

誰でも年齢と共に脳の機能が衰える。たとえば、何を食べたのか忘れるのは“加齢による物忘れ”であり、食事の経験そのものを忘れるのが“認知症”なのだという。

日本がバブルに沸いたあの時代の企業戦士とその妻たちも、今は老境の域に達している。とはいえ、気持ちはあっという間の30年で、人からの見た目と本人の年齢差(意識)のギャップは大きいかもしれない。

権力者の立場ではないが、自分の額にEという字を“相手が読めるように”書いてみる努力が必要になるような気がする。

 

今週のお題「自分にご褒美」

記憶の根源はいつ頃なのか

 

魔法のように会話がスムーズになったり、自分の思う方向に結論を導きやすくなったりする言い回しをマジックワードというらしい。たとえば、「ありがとう」と言われてイヤな気分になる人はいないだろう。人間関係の潤滑油にはうってつけの言葉である。

かたや、「一人一人ができることをする」、「意識改革すべきだ」、「断固たる決意で臨む」などでは、主張のトーンが上がり、高揚感が漂うものの、具体的に何がしたいのかはわからない。

「仕事をしながら口笛なんて吹いちゃいかん」と職場の上司が部下をしかった。

部下は答えた。「仕事をしながら口笛なんて吹いていません。ぼくは口笛を吹いているだけです」からと。放送作家織田正吉さんの『ジョークとトリック』にあった。

 

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1985年に「缶入り煎茶」という商品名の飲料が売り出された。その反応は少々、味気ないものだったという。

数年後にテレビCMの中で俳優が口にしたセリフを手がかりに商品名を変えた。それがきっかけで、売り上げが2倍になった。大ヒット飲料の「おーい お茶」(伊藤園)である。

商品名の覚えやすさや好ましさは売り上げを大きく左右する。ヒットの要因は、(話し言葉を使った)独特の名が消費者の印象に残りやすく、親しみやすかったことなのだろう。

全国のラーメン店は毎年3千軒が新規開業するが、8割が3年以内に廃業へと追い込まれるとのこと。コロナ禍の今ならもっと増えそうだ。

庶民に親しまれる食べ物も、提供する側からは厳しい状況をいくつも経ている。

江戸時代、白飯に挟んで食べられたという「鰻飯(うなぎめし)」も、(上にのせる)うな丼となるのが明治への移行期とみられ、それから、天丼、親子丼、牛丼、かつ丼の順で誕生し、世の中に広まった。

おいしかった記憶は、40年近くたっても鮮明に残っている。幼い頃に食べたものの味が味覚をつくるようだ。

 

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おいしいものを食べ。酒で興じる宴にも歴史がありそうだ。花見は本来、田の神に対する供応であり、迎える人々も神と共に大いに飲み食いするものだとか。

民俗学者・桜井満さんも<一人静かな花見は、少なくとも桜の花見ではない>と『花の民俗学』で書いている。

また、坂口安吾さんの幻想的な短編『桜の森の満開の下』では、<桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です>とある。

満開の桜の下は、“人の心を迷わせる不気味な場所”として描かれている。

安倍晋三前首相も、桜の妖気や毒気にあたり、勘違いしていたのだろうか。公費で開かれる「桜を見る会」に首相の後援会関係者が多数参加し「私物化」と批判された問題が、どんどん明るみに出ている。

本人はマジックワードを駆使してきたようだが、はたから見ればツジツマの合わぬことばかりである。それでも本人は嘘を重ね続ける。潔くなれない哀れな姿は、あのトランプ氏とよく似ている。

 

災い転じて失敗も偶然に成す

 

あのコカ・コーラは、痛み止めシロップを作ろうとして失敗したことで生まれたらしい。バルトロメウ・ディアスはインドを目指した嵐に巻き込まれた。しかたなく引き返す途中に、アフリカ大陸の喜望峰を発見したという。

偶然によって失敗が思わぬ大発見や成功につながるということがある。まさに結果オーライで、“災い転じて福となす”。

反対に“好事魔多し”ということもある。売れに売れた昭和の初め、谷崎潤一郎さんは豪邸を建てたが、税の滞納のためにわずか3年で手放した。印税に税金がかかることまで考えていなかったようだ。

遠藤周作さんは、テレビなどへの出演料をへそくりにしていた。そこへ想定外の事態が起こる。自宅へそれらの申告漏れの通知が届き、奥様にバレて一巻の終わり。

以降、遠藤さんはお仲間へ税務署をかたっていたずら電話をして、憂さを晴らしたそうな。

 

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ホワイトハウスに入居する米国の新大統領には、引っ越し代と模様替えのために(国から)10万ドルの予算が用意されるとか。前大統領のオバマ氏は、これを使わずに自費でまかなうと言い出した。

金持ちといわれた例の現大統領には、思いもつかぬエピソードだ。

「お金があるのだから、街灯をつけた方が安全」。「番犬を飼いなさい」。「この家は戸締まりが悪すぎる」。家から金品を奪うだけでなく、礼儀正しい言葉で忍び込んだ家人に防犯の心得を説き、もっぱら富豪や名士の家を狙った。

昭和初期に東京を震撼させたという“説教強盗”は、100件近い盗みを重ねた犯罪者の立場なのに、相手の不用心を懇々と諭した。罪人ではあるがなぜか嫌いになれない。

さて、脚本家にも俳優の好みはあるらしい。テレビドラマで局側から嫌いな人の起用を求められた際に、倉本聡さんは断固拒否するという。また、山田太一さんはその人を好きになろうと努めて書くとのこと。対照的な大御所2人も、好きな女優にまず挙げるのは八千草薫さんだった。

 

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時代とともに、意味合いが変わってくる言葉は多い。「ありがとう」の語源は「有り難い」で“めったにない”、“貴重な”という意味から、感謝の意を示す言葉となった。

「大丈夫」も、もともとは立派な男性を指す言葉だったが、“危なげないこと”や“安心していられる”ことを示すようになった。

文化庁が毎年行う“国語に関する世論調査”の語意や表記にて、2003年に「姑息な」の意味を尋ねたとき、「一時しのぎ」と正しく答えたのは13%で、70%が「ひきょうな」と勘違いしていた。

06年に「混乱したさま」を表す慣用句を「上を下への大騒ぎ」と正解した人は21%で「上や下への大騒ぎ」と間違えた人が59%もいたという。

常に、上を下への大騒ぎを巻き起こす(上述の)現アメリカ大統領。その姑息な言動は、果たして一時しのぎなのか、ひきょうなのかよくわからない。ぜひとも“潔(いさぎよ)き引き際”を見せてもらいたい。無理だとは思うが・・・。

 

総中流はすでに過去のことか

 

40億年以上前に地球の海は存在していた。その水がどこから来たのかは謎だという。そして、水から生命が誕生して、人体も6割が水でできている。

万物の霊長なるヒトも、動物の中では身体能力が低い。パワー、スピードともに勝る獣たちに捕食される側だった原始時代に、秀でていた能力は長く走り続けることだったようだ。

人類発祥であるアフリカの原人は集団で、(強烈な日差しを受ける面積が狭い)二足歩行で動物を追った。そして、暑さで動けなくなった動物を狩ったとか。

現代は地球に暮らす(9人に1人相当の)8億2千万人以上が飢えに苦しみ、5歳未満の子ども1億5千万人近くが栄養不足による発育阻害に直面。

世界で、すべての人々が十分に食べられるだけの食料は生産されているが、食料が偏って分配されたり無駄にされ、必要な人の口に届かない。

 

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食料の3分の1にあたる13億トンが毎年捨てられているという。試算では、その4分の1が有効に使われれば、飢餓人口のすべてが救われるともいわれる。

日本でも年に643万トンが“食品ロス”になっているとのこと。食料の約6割を海外から輸入する日本で、国連の食料援助の1.7倍にあたる量のロスらしい。ただ、一般家庭では食品を捨てない努力をしているはずなので、その数字にはピンとこないだろう。

近年では、スーパーマーケットなどで販売されている調理済み食品が重宝される。時間や手間を掛けず、食卓や弁当をバラエティー豊かにできるからだ。自分で食べられる量だけ購入すれば、食品のロスもほとんどないはずだ。

それは、外食でも家食でもなく中食と呼ばれて、日ごろの生活で偏りがちな栄養素をバランスよく摂取できる。

 

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大化に始まる日本の元号は、令和まで248を数えるそうな。最短は鎌倉時代の暦仁(りゃくにん)でわずか2カ月である。そして、歴代の最長は62年間も続いた昭和だという。

1950年代後半に登場した白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が初代で、60年代には、カラーテレビやクーラー、そして自動車も購入されるようになった。“三種の神器”と呼ばれた家電製品は、高度経済成長を告げる象徴である。

70年代に入り、人口が1億人を突破すると、“一億総中流”ともてはやされた。右肩上がり経済が当たり前。なお、バブルに酔いしれて景気も一転崩壊。低成長期で就職氷河期などを経て、若者の非正規雇用化などがすすむことになる。総中流はもう過去形の話になったのか。

1947~49年生まれの団塊世代は“逃げ切り世代”と呼ばれることがあるらしい。退職金や年金の不安無く60歳定年を迎えられた最後の世代とされる・・・から。というが、現実はどうだったのか。

団塊世代とその前後の若者たちは、物の少ない時代に勤勉に働き、経済成長を支えた。当時おさめた税金や年金も、ものすごい額になったろう。なのに、後に続く世代の老後には年金や医療、介護の不安が拭えない。

50年前に今の少子高齢化は予測されていた。それでも手を打たなかったこの国のツケは大きすぎる。

 

どこかで訊いた気になるお話

 

ドイツ人の定年後の暮らしぶりは優雅だと、何かで読んだ記憶がある。

ドイツでは食料品など以外の消費税率は19%で、現役世代は給与の半分が税金や保険料などで差し引かれるとか。

ネットで検索してみると、現在は半年間の限定措置として、日本の消費税にあたる“付加価値税”の税率が19%から16%に引き下げられ、食料品などに適用の軽減税率は7%から5%に引き下げられているらしいが。

とにかく、定年後は政府による手厚い保障があり老後の生活が安心なため、現役時代の高負担にも国民の多くは納得しているのだという。

いいことばかりではないかもしれぬが、少ない年金と長い老後で、定年後も働き続けなくてはならないわが国と思わず比べてしまう。

 

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コピーライター・野澤幸司さんの著書『妄想国語辞典』によれば、日本人は直接的な言及を避ける傾向にあるようだ。

「なるほどですね」=なんの関心もないこと。「行けたら行きます」=絶対に果たされない約束。「優しそうな人だね」=当たり障りのない無難な答え。

こんな感じで、曖昧(あいまい)に相槌を打ち、完全には否定しない。日本人っぽいことの皮肉も探ってみると案外楽しめる。

<歩くことはたいへんな冒険を試みているわけで、歩行中の一瞬は片足立ちをしていることになり、まさに一輪車をこいでいるに等しい>。さて、こちらは真っ当なお話らしい。人は、生まれてから歩くのを覚えるより先に、走ることを覚える場合があるという。

 

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“歩くほうが難易度は高い”との理由はとてもおもしろい。ニーチェいわく、<ひとがすでにおのれの道を歩んでいるか否かは、その歩きぶりでわかる>と。歩行とは、個性が表れるものなのか。

 さまざま事業を手掛けた阪急電鉄の創業者である小林一三さん。その語録では<下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ>とあった。

今はほとんど見ない下足番だが、どんな仕事でも打ち込んで、誰にも負けないくらいになれば周囲が評価し、一目を置く存在になっていく・・・のだと。

小林一三さんの歩きっぷりも実にお見事である。

 

ややこしさが付きまとう光景

 

雨がよく降る。わが地域では8月を除き雨の日がとても多い。

その昔に気象庁は面白い調査をやっていたそうな。1960年代は、人々がいつ夏服冬服に着替えて、やめるのはいつなのか。

また、こたつの使い始めと終わりはいつなのかを各地で調べた。当時は蚊帳や火鉢も対象だったとか。まさにそれは、“生活季節観測”の原理だったのだろう。

未開社会の経済原理では、人類学者マルセル・モースが“贈与と返礼”にあると説いたという。

仲違いしそうな部族の間では、食料や財産が贈られ、受けた側はそれに見合う礼を尽くす。それが、略奪的な振る舞いを慎む慣習として社会に定着したとのこと。逆にみれば返礼を怠れば平和の均衡は崩れそうだが。

20世紀の戦後は、大量生産・大量消費の歯車を回し続けてヘトヘトなのか、今では「そもそも買いたい品が思い当たらない」といった声もある。これが“成熟社会”というものらしい。

 

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食卓がありテレビもある。そこに家族が集まり、和気あいあいとご飯を食べる。かつての“お茶の間”の定番イメージであろうか。わが家では、そんなだんらんの場は失われているが。

某研究所の調査では、スマホを持っている人が7割を超え、ネットの利用時間も10年前の倍以上になっている。家族がそろっても、それぞれスマホと向き合って過ごす。

お茶の間の主役だったテレビもネット配信の視聴が増えて、変化を求められているようだ。会話にしても、テレビ画面かスマホ画面を見ながらで、お互いの顔を見ることも少ない。ある意味、コロナ対策にはいいのかもしれないが。

経済のお話では、いつの時代も増税は歓迎されない。激動の「昭和」が終わり、「平成」となった1989年に、初の大型間接税として3%の消費税が導入。当時の新聞の投稿欄にも<近ごろは数字の3が嫌になり>などの川柳が連なり、国民の反発は強かった。

1年前の10月は、2度も先送りされていた10%への引き上げが、実施。“3が嫌に”も、5%、8%と増率され、「令和」の幕開けはついに2桁だ。

 

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3円で壺を買った客が、欲しかったのは6円の方だった、と番頭に交渉。買ったばかりの品を客は3円で売り、先に払った3円と足して6円になると言いくるめ、値段が倍の品物を持ち帰る。この矛盾を見破るのはちょっと難しい。(古典落語『壺算“つぼざん”』より)

税率は10%と8%の二通りで、同じ食品でも飲食店で食べるか、持ち帰るかで異なるややこしさが付きまとうが、“損している感”は拭えない。

買い物も食品は8%、酒類が10%と異なる。酒呑みの私は不満でいっぱい・・・かと思いきや、酒類企業さんの頑張りで増税前より安かったりと。フルーティな酎ハイなどは自販機のジュースより安くて、本当に助かる。

国からも10万円の給付金をすごく早くいただけ、8月納車の新車のサポカー補助金も9月に入金された。マイナポイントの5千円もしっかりもらった。と、ウカれてはいるのだが、どこかになにかの矛盾が・・・あるような気もしてくる。