どこかで訊いた気になるお話
ドイツ人の定年後の暮らしぶりは優雅だと、何かで読んだ記憶がある。
ドイツでは食料品など以外の消費税率は19%で、現役世代は給与の半分が税金や保険料などで差し引かれるとか。
ネットで検索してみると、現在は半年間の限定措置として、日本の消費税にあたる“付加価値税”の税率が19%から16%に引き下げられ、食料品などに適用の軽減税率は7%から5%に引き下げられているらしいが。
とにかく、定年後は政府による手厚い保障があり老後の生活が安心なため、現役時代の高負担にも国民の多くは納得しているのだという。
いいことばかりではないかもしれぬが、少ない年金と長い老後で、定年後も働き続けなくてはならないわが国と思わず比べてしまう。
コピーライター・野澤幸司さんの著書『妄想国語辞典』によれば、日本人は直接的な言及を避ける傾向にあるようだ。
「なるほどですね」=なんの関心もないこと。「行けたら行きます」=絶対に果たされない約束。「優しそうな人だね」=当たり障りのない無難な答え。
こんな感じで、曖昧(あいまい)に相槌を打ち、完全には否定しない。日本人っぽいことの皮肉も探ってみると案外楽しめる。
<歩くことはたいへんな冒険を試みているわけで、歩行中の一瞬は片足立ちをしていることになり、まさに一輪車をこいでいるに等しい>。さて、こちらは真っ当なお話らしい。人は、生まれてから歩くのを覚えるより先に、走ることを覚える場合があるという。
“歩くほうが難易度は高い”との理由はとてもおもしろい。ニーチェいわく、<ひとがすでにおのれの道を歩んでいるか否かは、その歩きぶりでわかる>と。歩行とは、個性が表れるものなのか。
さまざま事業を手掛けた阪急電鉄の創業者である小林一三さん。その語録では<下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ>とあった。
今はほとんど見ない下足番だが、どんな仕事でも打ち込んで、誰にも負けないくらいになれば周囲が評価し、一目を置く存在になっていく・・・のだと。
小林一三さんの歩きっぷりも実にお見事である。
ややこしさが付きまとう光景
雨がよく降る。わが地域では8月を除き雨の日がとても多い。
その昔に気象庁は面白い調査をやっていたそうな。1960年代は、人々がいつ夏服冬服に着替えて、やめるのはいつなのか。
また、こたつの使い始めと終わりはいつなのかを各地で調べた。当時は蚊帳や火鉢も対象だったとか。まさにそれは、“生活季節観測”の原理だったのだろう。
未開社会の経済原理では、人類学者マルセル・モースが“贈与と返礼”にあると説いたという。
仲違いしそうな部族の間では、食料や財産が贈られ、受けた側はそれに見合う礼を尽くす。それが、略奪的な振る舞いを慎む慣習として社会に定着したとのこと。逆にみれば返礼を怠れば平和の均衡は崩れそうだが。
20世紀の戦後は、大量生産・大量消費の歯車を回し続けてヘトヘトなのか、今では「そもそも買いたい品が思い当たらない」といった声もある。これが“成熟社会”というものらしい。
食卓がありテレビもある。そこに家族が集まり、和気あいあいとご飯を食べる。かつての“お茶の間”の定番イメージであろうか。わが家では、そんなだんらんの場は失われているが。
某研究所の調査では、スマホを持っている人が7割を超え、ネットの利用時間も10年前の倍以上になっている。家族がそろっても、それぞれスマホと向き合って過ごす。
お茶の間の主役だったテレビもネット配信の視聴が増えて、変化を求められているようだ。会話にしても、テレビ画面かスマホ画面を見ながらで、お互いの顔を見ることも少ない。ある意味、コロナ対策にはいいのかもしれないが。
経済のお話では、いつの時代も増税は歓迎されない。激動の「昭和」が終わり、「平成」となった1989年に、初の大型間接税として3%の消費税が導入。当時の新聞の投稿欄にも<近ごろは数字の3が嫌になり>などの川柳が連なり、国民の反発は強かった。
1年前の10月は、2度も先送りされていた10%への引き上げが、実施。“3が嫌に”も、5%、8%と増率され、「令和」の幕開けはついに2桁だ。
3円で壺を買った客が、欲しかったのは6円の方だった、と番頭に交渉。買ったばかりの品を客は3円で売り、先に払った3円と足して6円になると言いくるめ、値段が倍の品物を持ち帰る。この矛盾を見破るのはちょっと難しい。(古典落語『壺算“つぼざん”』より)
税率は10%と8%の二通りで、同じ食品でも飲食店で食べるか、持ち帰るかで異なるややこしさが付きまとうが、“損している感”は拭えない。
買い物も食品は8%、酒類が10%と異なる。酒呑みの私は不満でいっぱい・・・かと思いきや、酒類企業さんの頑張りで増税前より安かったりと。フルーティな酎ハイなどは自販機のジュースより安くて、本当に助かる。
国からも10万円の給付金をすごく早くいただけ、8月納車の新車のサポカー補助金も9月に入金された。マイナポイントの5千円もしっかりもらった。と、ウカれてはいるのだが、どこかになにかの矛盾が・・・あるような気もしてくる。
追い打ちをかける感性の季節
かつてアメリカで、ある実験が行われたという。メッセージに<あなたのために選びました>と書かれた飴と、<適当に選んでみました>というメッセージでの比較反応である。
どちらが甘くておいしいと感じたか。結果では“あなたのために”との飴をなめたほうが、甘くおいしく感じる傾向が強かった。
実験を行った心理学者によれば、メモにて“人の善意を感じた”ことが味に影響したとの分析であった。
気象庁では、“雨量がどれくらいだと人はどう感じるのか”を説明していた。
1時間の雨量の比較で20~30ミリは「どしゃ降り」。30~50ミリなら「バケツをひっくり返したように降る」。50~80ミリになると「滝のように降る」だ。そして、80ミリ以上だと「息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感ずる」とのこと。
1977年頃の話だという。少し前に自分が指揮したオーケストラの練習を録音したものを、指揮者・カラヤンはその機器から聴いた。タクトで自分が台をたたく音まで鮮明に入っている。誰が盗み録りしたのか・・・不機嫌になった。
それでも、迫力あるその音に聴き入り表情を変えた。<これは、まったく新しい音。将来を拓く音だ>と。
カラヤンに聴かせたのはソニーが試作したデジタル録音機の音であった。この技術が世界初の快挙に繋がっていくことになる。1982年には世界で初めてコンパクトディスクプレーヤー“ソニーのCDP-101”が誕生して市販された。
この新製品の技術において、カラヤンの感性の裏打ちも“大いに役立った”ことだと思われる。
<少しの易さを願ってとどのつまりは大きな面倒の素となる>。美人画の大家・鏑木清方さんのエッセイにあった。
なぜひと手間を惜しんだのか・・・。自分にも思い当たる経験がある。悔い改めたつもりでも同じような過ちをまた犯す。
四季を1日の時間になぞらえると、秋は夕暮れどきに相当するのか。<季節も季節 これは秋>。詩人・山之口貘さんは『再会』という一編に綴った。
多くの人に共通するのだろうか。(同じような意味で)人生の秋であり、人生のたそがれ・・・ともいう。それにしてもこの7月と同様に、雨がよく降る9月である。
なにはともあれ、秋が一番感性豊かになれる季節のようだ。
お得感の裏には当然訳があり
或るレストランの料理メニューで、コースが2つあるとする。リーズナブルなコースが4千円で満足コースは5千円也。これだとお客さんの選ぶ決め手がないそうな。
もし、2つのメニューに豪華プラン1万円コースを加えたらどうなるのか。3つのコースを設定することにより、中間の満足コースを選ぶ人が増えるという。値の高いコースとの比較で安く感じる効果もあるからだ。営業マンがよく使うコントラスト(対比)効果である。
その昔、新幹線ひかり号が超特急を名乗ったのにも同様のわけがあるとか。開業から約10年、特急扱いだったこだまを超える超特急料金を設定して、最速と定刻順守にこだわりつつ利用者へ時間を売る。
駅の停車や通過は15秒刻みで指定され、乗車前の運転士は時計の時刻を秒単位で照合していた。
その道の達人と呼ばれる人もいるらしい。「穴出るよ、穴出るよ」等の口上で数字を記した紙を売る。地方競馬の予想屋は、出走馬の状態、騎手との相性、いくつかのデータをもとに、レースの行方を占う商売だ。
近年では、なかなか読めない人間の心も占うとか。人工知能(AI)で分析した「内定辞退率予測」も出現した。
情報サイトを運営するリクルートキャリアが、個々の就活生の振るまいを推測し、商品化していたらしい。AIによる「人の格付け」なのか、本人たちに無断で辞退率を割り出し、5段階に分けていたという。
そのデータを求めた企業は38社にのぼったというから、おいしい商売になったのかもしれないが、勝手な判断で社会からはじき出される人も多く出てしまうのは間違いがない。
<アメリカはいい国だった。どうなっちまったんだ>。(今の話ではなく)半世紀前のアメリカ映画『イージー・ライダー』でのセリフだ。アウトロー2人が自由気ままに大型バイクを駆って、アメリカを横断するロードムービーは、我々にとってとても懐かしい作品だ。
ピーター・フォンダさんとデニス・ホッパーさんは惜しくも他界されたが、爽快な映像とラストシーンのショックは今も忘れられない。
今は大統領選で賑やかなアメリカである。大事なのは、こちら側の必死の思いを察知されないこと。さらに相手も得になると思わせること。はったりも重要・・・なのらしい。1980年代に書かれた『トランプ自伝』にある氏の自論だという。
トランプさんにとって、でかい不動産取引を成功させるための極意と政治はまったく同じものらしい。
<私にとっては取引が芸術だ。それも大きければ大きいほどいい。スリルと喜びを感じる>。己の取引の能力と“天賦の才”を大いに自画自賛されてもいるようだ。選ぶも選ばぬも米国民しだいである。
そういえばこの国も9月に○○選があるらしいが、こちらは国民無視のようだ。
雨でしかたなく入った映画館
かつては電気料金が心配になる家電の代表であったクーラー(エアコン)も、燃費がだいぶ改善されているとか。
節約のためや電力不足で使用を控えるように、とのお達しのあった時代が懐かしい。今は熱中症への備えとしてぜいたく品から必需品へと変貌している。これほど使用意義が上がった製品もめずらしい。
オランダの研究者いわく、快適と感じる部屋の温度は男性の摂氏22度に対し、女性は25度だという。代謝の差らしいが、真夏に膝掛けを使用ている女性がいる職場もあった。当時は男性が室温の設定権を握っていたのか。
その昔、某所で或るオーディションがあった。開始時間になっても審査員席らしき正面の席は空席のままだった。会場でエアコンが稼働していたかは定かでないが、受けるメンバーは少年たちだけなので男女間ほどの体感差はなかったのかもしれない。
<きょうのオーディションは、終わり>。書類選考を通った数十人の少年に突然と言い放ったのは、「飲み物は要らないか」と先ほどからカップを配っていた中年男だった。
その男はジャニー喜多川さんだった。声かけを無視する者やむだ話をやめない者、黙ったまま受け取る者もいた。その時点で失格となったのは、「開始時間が話と違う」と文句をいう者だった。
公に姿を見せず写真撮影も嫌うジャニーさんの素顔をどの少年も知らなかった。「ぼくは素(す)を見て判断する」とジャニーさんは語った。オーディションの合否は飲み物を受け渡す時のやりとりの印象で決まったのだ。
若い世代の方はご存知ないだろうが、日本の男性アイドルグループの元祖の誕生は1960年代であった。まずは、若い女性から「身近な男の子」として人気を集めていたのが“スリーファンキーズ”。そして、ジャニーさんが自らの少年野球チームから選抜した4人で結成したグループが“ジャニーズ”なのである。
雨で野球の練習ができない日があった。東京・代々木公園の少年野球に参集した4人を連れたジャニーさんは、しかたなく映画館に入った。そこで観たのが『ウエスト・サイド物語』で、ジャニーさんとメンバーたちは興奮した。少年野球チームが芸能の世界を目指すようになるきっかけであった。
元祖ジャニーズから始まった男性アイドルのプロデュース。まさにその雨の日が、日本のエンターテインメントで一つのジャンルを確立するまでになるのだ。有名な<ユー、やっちゃいなよ>は、時代の波動と共振したアイドルの育成術になった。
もともとジャニーさんは、(アメリカで過ごした高校時代に)バイト先の劇場で、歌って踊る男性グループのショーをよく観ていた。そこでは50歳代のグループの人気が高かったが、ショービジネスの未開拓な日本では、少年が一生懸命に歌って踊る姿が“良い”との直感だった。
放送作家・高田文夫さんは野球少年だった。渋谷の少年チームと対戦して2試合とも負けたという。1年後、テレビをつけるとあの渋谷の野球チームの面々が映って、歌って踊っている。高田さんいわく、「もうあの頃から何をやってもジャニーズには負けていた」と。
師匠を選ぶのも芸のうちとか
アメリカの人気スポーツはフットボール、野球、バスケットボール等の印象だが、世論調査ではアメフットが約4割の人気を保つという。そして、かつてトップだった野球は1割未満だとか。
人気急上昇なのはサッカーで、国民の半数が楽しみにするまでに成長しているらしい。そのけん引役は女子代表チームで、ワールドカップで4回の優勝、オリンピックでも金メダルを4回獲得。いずれも史上最多だ。
さて、日本のプロ野球を大人気にしたけん引役といえば、やはり長嶋茂雄選手であろう。1959年6月25日に行われたプロ野球初の天覧試合は、巨人と阪神の戦いであった。
不振が続いた長嶋選手は買い込んだスポーツ紙の見出しに<長嶋サヨナラ本塁打>と書き換え、自らを奮い立たせた。その効果なのか、長嶋さんは村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、巨人を勝利に導いた。
立教大学で同期の長嶋茂雄さん・杉浦忠さん・本屋敷錦吾さんは「立教三羽ガラス」と呼ばれ、東京六大学野球リーグでの長嶋人気はものすごく、常に観客は満員であった。かたや、当時のプロ野球の球場はガラガラだったと聞いたことがある。
卒業後、長嶋さんと杉浦さんはともに南海ホークスへ入団する予定だったが、長嶋さんは直前に巨人へ行くことになった。そして、プロでも長嶋人気が沸騰してスーパースターへとなる。私も幼い頃、長嶋ファンになってから野球のファンになった記憶がある。
どの世界でも、人気者のヒーロー、ヒロインがいるとジャンル自体が活気づく。
1974年、(風刺の利いた新作落語で人気を博していた)落語家・笑福亭松之助さんの元へ、ひとりの高校生が訪ねて弟子入りを志願。
何でワシのとこなんかに来たんや? と尋ねる師匠に、若者は遠慮をせずにはっきりと答えた。「センスよろしいから」と。
師匠は腹を立てるどころか、「おおきに」と弟子入りを認めた。<師匠選びも芸のうち>。落語界の格言だという。その弟子が後の明石家さんまさんである。
若者の達者な話術はテレビ向きだと見抜いた松之助師匠は、お笑いタレントへの転身を勧めもした。今のさんまさんを見るたび、あの師匠の慧眼が思い起こされる。
師弟の関係は芸の道にかぎらない。ある野球少年のあこがれはイチロー選手だった。進学した中学校でも当然に野球部・・・と思いきや、なじみのないバスケットボール部に誘われた。
その顧問の熱い口調に、少年の心が揺らされることになる。君はNBAに行ける! 最高峰のプロバスケットボールで活躍できる大器なのだから・・・と。
とはいえ、初めはお手玉続きで滅入っていた少年だったが、10年足らずで指折りの選手に成長した。少年は日本人初の(NBAドラフトで)1巡目指名を受けた八村塁選手である。
よくぞ原石を磨いてくれたことと、師の見る目にも頭が下がる。師匠選びの巧みなのか、弟子選びの巧みなのかはわからぬが、とても痛快な話である。
魅力のある著名人たちの逸話
「食べ物の恨みは怖い」という。それは、人の記憶に強く残るものだからなのか。美しく盛りつけられた日本の弁当は、海外でも注目されている。
かつて、脚本家・向田邦子さんは(小学生だった)戦前の“弁当の時間”について、エッセイに記した。向田さんが書いたドラマにも食の風景は多かった。
向田さんの同級生に、弁当の時間になると「おなかが痛い」、「忘れた」と言って教室を出て行く子がいたそうな。そして、ボールを蹴ったり砂場で遊んでいた。
先生も周りの子も、自分の弁当を分けてあげようとはしない。「薄情のようだが、今にして思えば、やはり正しかったような気がする」と向田さん。
自分に置き換えても、人に同情されて肩身が狭い気持ちになるよりはいいのだと思えたらしい。どこか切なさがつきまとう子供のころの弁当。その思いも含めて、生きることを学ぶのも食育なのか。
歳を重ねてもミーハー気分のままである。とくに、子どもの頃や若き日の時代にいた著名人たちの逸話が大好きだ。
戦後間もなく、松竹大船撮影所の駐車場には色とりどりの乗用車が並んだという。俳優たちが競って乗り始めていたからだ。名監督の小津安二郎さんはそれを見て嘆いた。
「いつから撮影所はやっちゃ場になったんだい」と。
こちらは東映映画の話だ。「最初と最後に(高倉)健さんの歌があって、立ち回りがあれば、途中はどうでもいい」。映画監督・降旗康男さんは、『網走番外地』シリーズを担当するにあたり、映画会社の幹部からそう言われた。
当然のことながら監督は憤慨した。途中がどうでもいいなら映画は成立しない。しかし、映画館で健さんの映画を見て、おえらいさんの言葉は真実だと悟った。
映画の冒頭では大拍手。しかし、途中で客の何人かが居眠り。かと思えば、ラスト近くに健さんの立ち回りの場面で起きだして、<待ってました!>と声をかける。たしかに・・・こんな魅力ある俳優はどこにもいない。
お笑い芸人の世界にある「出落ち」とは、ネット検索によると<演者が登場した瞬間、すでに観客から笑いが起こる状態>という意味らしい。
それは、ほめことばではない。舞台に顔を出した瞬間がクライマックスになってしまえば、その後は痛々しい雰囲気に陥ることだろう。
芸人には悪夢のような展開だが、どこがクライマックスだったかを知るのは、すべてが終わった“あとの祭り”である。
昭和40年代、『天才バカボン』などを描いた赤塚不二夫さんは、スタッフと編集者による合議制でアイデアを出し合い数々の作品を制作した。漫画界に新風を・・・との結束は固かった。
赤塚さんは締め切りを守る人だったが、なぜか入稿は締め切りギリギリになった。遅らせたのは担当の編集者だ。
もし、斬新な内容で編集長に見せたら描き直しを求められるかもしれない。そのためにわざと、直したら間に合わない時間まで原稿を手元に置いておいたという。粋で機転の効く編集者もいた時代だ。
語り継がれぬその年の代表曲
ネット、スマホの流通で、映像・音楽などの配信も定額料金制が定着している。まさに今は“所有”から“利用”への転換期なのか。CDやDVDという媒体を必要としない点では、レンタルと通じるところもありそうだ。
昔、江戸でも「損料(そんりょう)屋」なるものが庶民に重宝されていたという。布団や鍋などの日用品、衣装も貸して料金を受け取るというレンタル業者だ。
住まいの長屋は6畳程度で家財道具を置くスペースもないし、頻繁に火事も起きるため合理的選択としてモノを持たなかったらしい。
戦争とモノ不足を知らない。高度経済成長期に育ち、「明日は今日より豊かだ」を信条にフォークやロック、漫画など大衆文化も生む。
堺屋太一さんは『団塊の世代』の前書きで書いた。「団塊」とは鉱業の専門用語で、堆積岩中に周囲と成分の異なる物質が丸みを持った塊となっている状態を指す・・・のだと。
前後の世代と異なる経験と性格を持つ団塊世代は、一線を退いても“人生100年時代”を切り開く最前線にいるようだ。また、子どもの団塊ジュニア世代も異質の経験をしている。
大不況期の日本で就職時期を迎え、非正規雇用に甘んじた人も多い。いわゆる「就職氷河期世代」である。
団塊世代やその前後の世代から、日本の音楽シーンも塗り替えられた。カラオケの普及もあり歌いやすい曲ばかりが求められる時代となり、プロ歌手の圧倒的表現力やプロ作家の革新的創作力は軽んじられた。そして戦前からの歌謡曲は衰えていった。
作詞家・阿久悠さんのエッセイに『誰が歌謡曲を殺したか』がある。全盛期を知る阿久さんには歌謡曲は“殺された”ように映っていたらしい。
思えば、その年を代表する曲を思い出せぬ時代になって久しい。「聴き歌」がなくなったことを阿久さんは歌謡曲を殺した犯人の1人と考えていたようだ。
自分で歌って楽しむ「歌い歌」とは違い、「聴き歌」はもっぱら歌を聴き歌い手の技、芸を楽しむ歌のことだという。
戦争はもっと苛烈なものだという思いがあったのか。こういう歌で戦争を語れるか、などと反戦フォーク『戦争を知らない子供たち』がヒットしたとき、その賛否が世に渦巻いた。
戦後生まれの若者が平和をやさしく訴える内容に、旧世代は“甘さ”を感じたようだ。戦後まだ25年の1970年にその曲は生まれた。
過ちを身にしみて知る人々がたくさんいた。また、ギターを奏でる若者たちにしても、戦場の悲惨、空襲の恐怖を聞いて育ったはず。戦争への怒り自体は共有しているなかで、この歌は議論を呼んだのだろう。
それからまた半世紀を経た今の音楽も、専門の作曲家や作詞家に頼らず、自分たちの言葉を自分好みのメロディに乗せて伝えるという割合は多いだろう。ただ、歳をとったせいか現在の流行歌がまったくわからないのがとても情けない。
不幸にする一番確実な方法は
<みんなで吸おう 明るい煙草>。昭和20年代中期の映画館には、こんなキャッチフレーズのポスターが貼ってあったらしい。
作家・井上ひさしさんが傑作青春小説『青葉繁れる』のあとがきに、その景観を書き留めていた。仙台市での高校時代には、映画館に足しげく通ったとのことだ。
当時、国の予算の2割が煙草と塩の利益金で賄われ、教育費や公共事業費などを支えていたという。孤児院で過ごした井上さんは教育費に反応し、「大人になったら喫煙する」と映画館で決心した。
暮らしが質素だった時代の思い出は懐かしい。作家・向田邦子さんは子供の頃に、宴席から酔って帰った父によく起こされたという。
手をつけない肴(さかな)や二の膳の折詰を開き、「さあ、お上がり」と父が促す。そして、夢とうつつの境で箸を動かす子どもを楽しげに眺める。私も寿司折を夜中に食べた記憶がある。思えば、家に冷蔵庫もなかった時代である。
<記憶の中で「愛」を探すと、夜更けに叩き起されて、無理に食べさせられた折詰が目に浮かぶ>と向田さんはエッセイに記した。古き良き時代が頭に描かれ、家庭のにおいが行間に漂うようなお話である。
インターネットで葛飾北斎の『十軒店雛市(じっけんだなひないち)』を見ていたら、商家の軒下に小さな巣があった。日本橋近くのにぎわいを描いているが、とても親しみを感じる。巣をかけやすくするためか、落下防止用なのかわからぬが、巣の下に支えるような板が設置してある。
ツバメは天敵からひなを守るため、あえて人家に営巣するという。江戸の昔から、人々はその子育てを応援していたということのようである。
“幸福を招く”とされるツバメの巣へけなげに餌を運ぶ親鳥。そして、元気に育つひなの姿からは、とても尊いものが伝わる。そういうことが幸福のヒントなのだろうか。
私が子どもの頃には、学校や官公庁などの土曜日は半休であった。その土曜日を「半ドン」と言っていた。語源はオランダ語の「zondag(日曜日)」である“ドンタク”だという。それが「半分休み」の「半ドンタク」から「半ドン」へとなった。
週休2日制の普及で、今は“解放感”の金曜日の夜と、“ゆったり気分”の土曜日ということになるのか。
ところが、日曜日となれば夕方どころか朝からもういけない。いわゆる「サザエさん症候群」が広がった。面倒な会議の場面を想像したり、イヤな上司の顔を思い出すことも。休みが長ければ長いほど、休み明けの不安も前倒しでやってくる。
その症状は子どももまったく同じで、3月からずっと休校という所も多い。解禁時にはどんな“憂鬱”が待っているのだろうか。
フランスの思想家ルソーは『エミール』にて、子どもを不幸にする一番確実な方法を説いている。<それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ>と。物に限らず、わが子の笑顔ばかりみているようなら、幸福は子どもから遠ざかっていく。
厚顔無恥で見え透いた嘘ばかりの“どこぞの首相”は、いったいどういう育ちを受けてきたのか。父親はとても立派な政治家だったのに・・・。
お題「#おうち時間」
存在感の薄まるTVメディア
「横浜市史」にあるという。江戸末期に米国のペリー提督ら一行が、黒船で来航した際に横浜で相撲見物をしたそうな。
1854(嘉永7)年、日米和親条約が締結されたときには、幕府の配慮で力士と面会した。米兵は、米俵を軽々とかつぎあげる力士に興味を抱いた。
そして、即興の親善試合で無敵だった大関の小柳が米兵3人を同時に相手にして圧勝。<アメリカ人一同喝采して感嘆し、力士たちの親善の使命は見事にはたされた>とのこと。
NHK朝の連続テレビ小説で『ひよっこ』など3作品を書いている脚本家の岡田惠和さんによると、朝の忙しい時間に放送されるため、画面を見なくとも、聞いているだけでも理解できるように書くという。
目だけの演技などの場面を避けてセリフ中心のドラマを作るのだ。そのため、“みんながよく喋る”。それが朝ドラのにぎやかさと明るさのエッセンスなのかもしれない。
歴代の作品で3世代同居などの大家族が描かれるのもそのためか、“喋る相手”もたくさん用意されている。
高視聴率の大相撲も夏場所が中止ということで、テレビで観ることもできなくなった。朝ドラはどこまで撮りだめされているのかわからぬが、この春スタートの連続ドラマもどんどん途切れていく。
なかには前宣伝だけで初回スタートさえされていない作品もある。テレビというメディアの歴史でこんなことは初めてなのだろう。
近年では若者のテレビ離れなどといわれることもある。一日中テレビをつけっぱなしにする“必要”派と、パソコンで動画投稿サイトのユーチューブや動画配信サービスのAmazonプライム・ビデオ、Netflixを見られれば十分という受信機を持たない“不要”派に分かれるらしい。
私は自室でパソコン作業をしながら、テレビをつけっぱなしというパターンが多い。リアルタイムでの番組はほとんど見ずに録画をしたドラマを編集してまとめて観る。あとはアマゾンの“Fire TV Stick”をテレビのHDMI端子に挿して、ユーチューブや動画配信サービスを楽しんでいる。
ある意味ではテレビ離れ派なのだろうが、パソコンやタブレットよりテレビの大画面で見るのが好きである。
それでも、テレビ番組は視聴者への到達力が圧倒的に高く、ネットでも話題にされやすいのはたしかだった。テレビ番組をネットでも流す“常時同時配信”も、若者のテレビ離れがあるから成り立つのかもしれない。
かつて、放送表現ギリギリの実験的な番組がテレビの歴史を変えてきた。しかし、今の地上波からはなかなか生まれない。コンテンツが氾濫する時代だからこそ、存在感を高める努力をしないといけないのがテレビ局のはずだ。
コロナで自粛中の今でも、テレビの中ではネット内の動画が繰り返し流されているだけ。情報やニュースの内容でも、ネットのアクセスランキングなどが横行している。まるで、素人の作る番組にひれ伏すが如くに・・・である。情けない。