日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

当たる素材を嗅ぎ分ける嗅覚

 

1943年に『姿三四郎』でデビューした黒澤明監督は33歳だった。当時、戦争で他の監督が出征していたという状況下である。

60年当時、映画界は名監督が多くいて、助監督を長く経験してから監督デビューするのが普通だった。やっと映画監督になれた時には、先輩監督の癖が染みついて、自分の世界が構築できなくなっている人もいた。

映画『羅生門』、『七人の侍』など黒澤監督とともに、世界的な傑作を数々生み出した脚本家の橋本忍さんは、(黒澤監督より)8歳下であった。肺結核で療養中にシナリオ作家を志し、映画監督の伊丹万作さんに師事した。

50年に黒澤監督との共同脚本による『羅生門』でデビュー。ベネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を獲得。

 

 

60年頃に脚本家・中島丈博さんは、橋本忍さんのもとで1年半ほど修業。橋本さんは40歳代はじめで中島さんが20歳代半ば。

橋本さんは黒澤監督作品を次々と手がけて、脂がのりきっていた。自分の考えで仕事を進める強さと、誰にも負けないという気概があった。

中島さんは橋本さんと毎日、机に差し向かいで仕事をする。場面を書いてとの注文で、提出しても突き返される。細かい指示はなく、「違う」との一言。10回ほど繰り返し、1、2行採用される日々だった。そのうちに、何が良いのかわかってくる。体で覚えないと駄目ということである。

橋本さんは<今回はこれで、世間をあっと言わせてやる>と、賭けのように作品に取り組むこともあった。当たる素材をかぎ分ける勝負師の嗅覚らしい。黒澤さんからも“(映画の)ばくち打ち”と言われ喜んだ。

「正確に書くんだ」と、書きだす前に場面ごとの簡単な説明(箱書き)を模造紙に書かせ、旅館の畳敷きの広間に並べた。俯瞰して「このシーン、いらないよ」などと順番を変えていく。脚本に取りかかる時には、最後の場面まで(構成が)完璧にできあがっていた。

 

 

山手線で一人の人物を見つめる。一緒に降りて、改札口まで行き見送る。顔の特徴、体つき、生活背景や怒る時、泣く時まで想像して脳裏に焼き付ける。ストーカーではなくシナリオ修業の一つだ。橋本さんは約一年間続けた。

その方式は、『七人の侍』の脚本を共同で書いた黒澤監督の人物描写力を超えるために考えた。骨太な人間観や社会観を持つ脚本家なのである。その後も黒澤映画の脚本チームで活躍した。

他の監督とも『日本のいちばん長い日』、『白い巨塔』、『八甲田山』など話題作を手掛け、骨太で優れた構成の脚本は日本映画の黄金時代を支えた。58年の『私は貝になりたい』などと、草創期のテレビドラマの脚本でも活躍している。

73年には、橋本プロダクションを設立。『砂の器』の脚本を、山田洋次さんと共同で書いた。 <構成の鬼といわれたこの人から、シナリオの根幹はフレーム(骨組み)にあるということを、叩きこまれるように教わった>。山田さんの言葉である。