日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

人類の文化にはそれがある

 

まだパソコンが一般化する前の時代に、横浜駅近くの銀行を会場に借りた写真の展示会があった。得意先の手伝いで、地元の写真コンテストの入選作品の飾り付けを行ったが、閉店後の時間帯でも行員さんたちは無言で事務処理に追われていた。

今はデジタル処理なのだろうが、その昔に金額が合わぬ場合はそれなりの処理があったという。仮に、2万円の支払いを求めた客に誤って20万円を渡した、という行員の“桁違い”のミスでは、当然その日の集計で18万円の不足金が生じる。

その額を“9で割る”ことで手がかりがわかるらしい。この場合は2万円である。その額の伝票を追求することで不足金の原因が判明するとのこと。

コンピュータ処理以前は電卓で計算をしていたのだろうか。そして、もっと時代を遡れば算盤を弾いていたのであろう。

 

 

いつの世もお金にまつわる話は多い。もう10年以上前になるが、霞が関界隈では“タダ酒”の話で大騒ぎになっていた。

深夜に帰宅する官僚が公費で乗ったタクシーの運転手から、缶ビールやつまみ、そして現金まで受け取っていたという。運転手側としても、家が遠くて距離を稼げる客には、引き続き指名してもらいたいため、接待攻勢で競い合っていたようだ。

“のど”や“ふところ”を潤した官僚は、財務省など13機関の520人にのぼった。

程度の差はあるだろうが、業者提供の缶ビールをゴルフ接待に置き換えてみるとどうか。公費で手にする役得ということでは変わりがない。常識の感覚がずれた霞が関の持病では、“お疲れさまの1杯ぐらい”はどうってことはなかったのかもしれないが。

 

 

<安物買いの銭失い>と似通った感じで使われる<ただより高いものはない>。ただの物は返礼に苦労したり、無理な頼みごとをされることもある。発覚すればかえって高い代償を払うことにもなりかねない。

文化人類学において、贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念を「互酬性(ごしゅうせい)」というらしい。有形無形にかかわらず、それが受取られたならばその返礼が期待される、というものである。

ほとんどの人類の文化にはそれがあるそうだ。“ただ”と思い、使うサービスでかけられる呪力では、個人の情報や嗜好も収集されてしまう。友人の情報、政治信条も、企業や外国政府に利用されかねない。

某市では、(管轄の)自治会の役員たちへ、予算から飲食を振る舞うことも恒例化しているようだ。“タダ酒”の文化も廃れることはなさそうだ。