日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

伝説の魔球は無意識的な記憶

 

ふだん気にしないような味覚、嗅覚、聴覚から、埋もれていた過去が、奇跡のように立ち上がることがある。フランスの小説家マルセル・プルーストは、『失われた時を求めて』にてそれを「無意志的な記憶」と名づけた。

サザエさん”では、磯野家にトースターがきたのは1955年で、マスオさんはそれを「パン焼き器」と呼んだ。波平さんが60年代には、カラーテレビの値下がりを待とうと思う場面もあった・・・らしい。

リアルタイムではないが、初めて触れる家電に対する記憶はわが身も同様だ。

現役時代は代名詞でもある“高速スライダー”を武器に数々の伝説を残してきた右腕。記録より記憶に残るのは伊藤智仁投手である。それも、無意志的な記憶として・・。

史上最強の変化球として語り継がれている“魔球"の原点は社会人時代にあった。スライダーは持ち球にしていたが、当時はカーブの方が自信があり、決め球にはほど遠いかったらしい。

 

 

当時の社会人野球は金属バットの全盛期であった。バットの芯を外しても、スタンドインする場面を何度も経験していた伊藤智仁投手は大きく曲がる、(バットに当てさせない)変化球の取得を考えていた。

後にプロ入りする野茂英雄投手はフォーク、潮崎哲也投手はシンカーを武器に活躍した。金属バットに当てさせないのが一番の近道として、武器を持つ必然性があったのだ。

変化が大きくてもキレがない、キレがあっても変化がない。伊藤投手は試行錯誤を繰り返し、悩んでいた時期に先輩投手からヒントとなる握りを教わった。そして、投げ方と握りをアレンジして、すぐにゲームで使ってみた。

同じ配球で投げても、バッターの反応が違うのがわかった。「明らかに違うよ」と捕手からも言ってもらった。

生まれ変わったスライダーという武器は面白いように、相手打者のバットを何度も空を切らせた。自分のスライダーは<誰がやっても投げられない>。プロデビュー前に抱いた確信である。

 

 

一番変わったのは曲がり幅で、そのイメージは速く・大きくであった。腕を振る感じとしては、ストレートが8割なら変化球は10割と(ストレートより)大きかった。ヤクルトで、ルーキーイヤーの春季キャンプのとき、活躍する先輩投手と比べて、やっていけると感じた。

1993年4月20日に先発で初登板。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、7回を10奪三振2失点で勝利投手となる。

その年は前半戦だけで7勝2敗・防御率0.91の成績を挙げる。7月4日の登板を最後に戦線離脱しシーズン終了まで復帰はならなくとも新人王を受賞。

2ヶ月半、全投球数1733の登板過多でのひじ痛・肩痛であった。

当時の監督・野村克也さんは、<稲尾和久伊藤智仁。こういうのを天才って言うんだよ。プロ野球史上最高の投手>と評した。

現役通算37勝27敗25セーブ、防御率2.31。

テレビの野球中継で、たった一度だけ伝説の魔球を見たことがある。伊藤智仁投手が放つ一球一球で、中継アナと解説者がどよめいて言葉にならなかった。