日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

スリリングだったラジオ放送

 

ニッポン放送の深夜番組『オールナイトニッポン』は、1967年10月の番組開始以来とラジオの長寿番組である。ニッポン放送をキー局とするラジオの深夜放送である。他局にも深夜放送はあったが私の住むところでは、ニッポン放送の感度が一番良かった。

“フォークル”ことフォーク・クルセダーズが1967年に出した『帰って来たヨッパライ』は、深夜放送から火がつき、シングル・レコードはミリオンセラーとなった。メンバーとして活躍した きたやまおさむ(北山修)さんは、『戦争を知らない子供たち』や『あの素晴しい愛をもう一度』などの作詞でも知られ、精神科医の仕事を続けながら、音楽活動を行っている。

1970年代には、自切俳人(ジキルハイド)と名乗り、同番組の覆面ディスクジョッキーも務めた。

 

 

「深夜放送は現実に対する、もう一つの時間や空間の発見だ。DJもリスナーも、みんなが同時間帯に起きて、聴いているという連帯意識みたいなものがあった」と、きたやまさん。当時の若者たちの解放区として深夜放送は、思いを率直に歌うフォークソングのブームを支え、斬新な表現も受け入れた。

オールナイトニッポン』では、吉田拓郎さんが(最初の妻と)突然の離婚宣言。生放送が終わるのを狙い、深夜に報道陣がスタジオへ群がった。長渕剛さんは(のちに結婚をする)ゲストの石野真子さんを放送中熱く口説いた。

番組冒頭でスタッフと衝突し灰皿を投げつけて帰り、番組に丸々穴をあけた売れっ子の歌手&俳優もいた。テレビで見られぬ大物アーチストたちの、楽しい会話や弾き語りのセッションもあった。

テレビというメディアに追いやられた形のラジオは、新しい形態へ変わり若者たちへの発信源として人気を博した。

 

 

“タモさん、チーさま”と呼び合うほどに仲の良い、タモリさんと松山千春さんの絡みもあった。どちらもデビューしてすぐの頃だった。同じ曜日の一部と二部を担当して、(夜中の3時に)タモリさんが千春さんへバトンタッチするときの会話が楽しかったのだ。

なにが起こるかわからない深夜生放送のリアル感はとてもおもしろかったが、ラジオは昼間もなにかが起きる。

土曜日の昼だったか、沢田研二さんがラジオ番組を持っていたことがある。その時期に、ジョン・レノンが亡くなった。そして、そのときの沢田さんのコメントが忘れられない。

5年間の主夫生活を終え復帰するというジョン・レノンであった。アルバム『ダブル・ファンタジー』の発売から間もなく射殺された。享年40歳。記念すべき作品が遺作になった。

沢田さんは、アルバム収録曲『スターティング・オーヴァー』の曲名と、皮肉な運命を重ねて悔しさをにじませた。

<もしジョンが復帰前もアーティストとして充実な時間を過ごしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない>と語った。その怒りと悲しみはラジオという媒体を通じて、ストレートに伝わってきた。