逆手に取ることもよさそうだ
“御用納(おさめ)”は25日。その祝いで、与力同心の知り合いも客として集まり、“歳忘れ”と称して延々と・・・。大みそかまで引き続き飲み明かす。江戸の町奉行所の年末年始だという。社会学者・園田英弘さんの著書『忘年会』によれば、天保年間の記録にあるそうな。
年明けは(正月)17日まで、諸藩の留守居役などの年礼客と、芸者やたいこ持ちらも入り乱れ、気ままに飲み過ごす。
時は過ぎ、クルマは人類最速のランナーより速く、円周率の計算をさせれば、コンピューターが人間をはるかに超える能力を発揮。それでも、機械に負けたと悔しがる人はいない。
世の中は“情報"があふれ、知りたいことや気になることがあれば、誰もがスマホ片手にネットで調べる。そしてかんたんに答えを得てしまうのだ。
とはいえ、人間の中身は変わらない。江戸時代の年中行事は引き継がれ、忘年会がさかんに行われるシーズンである。
古代ギリシャや古代エジプトの時代にも図書館があり、ひとりの人間が一生かかっても読みきれないほどの情報が蓄積されていた。何十万冊という本から、目的に関連する項目を調べるのはきわめて困難だったはず。アナログ情報が増えれば増えるほど、引き出すのに多大な労力を強いられた。
検索で一定の情報を得られる便利な現代社会において、この“検索"という機能は、人類史上かつてない、きわめて重要なテクノロジーのひとつなのだという。
デジタル化されたデータベースへのアクセスが可能になることで、加速度的な情報量の増加でも、瞬時に欲しい情報を引き出すことができるようになった。アナログとの大きな違いは、情報量は増え続けても、調べる手間や労力がほとんど変わらない。
“情報化社会"の流れで今は“検索社会"になっている。おいしそうなお店、初めて訪れる場所、食事の献立などと、あらゆる情報を検索から得ている。
Google等の検索エンジンに引っかからない情報も、無数に存在するという。ネットとの差別化を図る方向で、これからのテレビは「Googleの逆を狙う」ようなことを、テレビディレクター、ノンフィクション作家の佐々木健一さんはコラムに書いておられた。
テレビが持つ可能性として<一方通行の“受動メディア"であるテレビの強みは、視聴者に“偶然の出会い"を提供できる点>なのだと。
観るつもりじゃなかったのに、たまたま見た番組が面白かったとか、自分の趣味や趣向とかけ離れた番組との出会いがなにかのきっかけになることもある。自分で予想もしなかった“新たな自分"が掘り起こされ、世界も広がる。
悲しい結末のドラマが苦手な私も、昨夜に最終話の『大恋愛?僕を忘れる君と』の上質な結末に泣けた。まさに“偶然の出会い"を演出できるのが、テレビの醍醐味なのだろう。
配信視聴が増えると、自分の好きな作品に偏ってしまう。偶然の出会いに期待を持てれば、テレビというメディアも捨てたものではないはず。