誤解のない師走を堪能したい
<銭金が こうたまればと 十三日>。江戸川柳である。この時代の風習で、12月13日は年に一度の大そうじ“煤(すす)払い”の日だった・・・と。
仕事もさることながら、忘年会で多忙な方もいらっしゃることだろう。誘われて「行けたら行くね」と言う人がいるという。ふつうは“気が向いたら行ってやるよ”との意味でとられて、“なんであなたの気まぐれに付き合わなきゃならんのかい!”と思われそうだ。
それも地域によっては、遠回しな“断り文句”として、相手を気遣う時に使われる便利な言葉としてとらえられるケースもあるという。
魅力的な誘いではないと思うが、はっきり言うと角が立つため、やんわりとした表現で断るときの名文句なのだとか。受ける側も“来られたら来てね”と表面的には言いながら、内心では冷静に「欠席」と解釈する。
「失笑」についてのアンケートで、本来の意味の「こらえ切れず吹き出して笑う」が27.7%だったのに対し、「笑いも出ないくらいあきれる」と答えた人は60.4%もいた。
“失笑が漏れる”、“失笑が広がる”、“失笑を買う”などと、愚かな言動を笑い、笑われるために、「失笑」の解釈は“笑う”ことよりも“あきれる”方に、意味の中心が移ってしまったようだ。
稽古が始まりしばらくして、あるシーンのディテールのところで蜷川幸雄さんの怒声が響いた。登場の仕方が悪い、とのこと。
音楽プロデューサー・松任谷正隆さんの新聞コラムにあった。
それは本当にディテールでしかなく、なんでこんなことに怒らなければならないのか。「蜷川幸雄さん演出の音楽劇の音楽を担当させていただいたときのことで、それがちょっとしたヒントになった」という。
松任谷さんは舞台演出を始めて41年。そのほとんどは音楽のショーの演出だった。ここ数年は自ら脚本も書き、俳優たちと一緒の音楽劇を企画している。
その音楽劇で俳優と演出家はどう付き合うべきか、ということが課題になっていたところだったという。
怒られている俳優は、蜷川劇団の人であり、バッタのように謝り続け稽古は続いたそうだ。“不条理”という3文字を頭に浮べた松任谷さん。こんなやり方をしてもこの人の演技は良くなるわけない・・・と。
しかし、ふと目をやるとそこには(蜷川劇団ではない)ゲストの俳優が、それを黙って見つめていた。
悟った瞬間である。<蜷川さんは自分の身内を怒ることで、このゲストに自分の求めているものを見せている>のだと。