日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

伝説の「阿鼻叫喚」コンサート

 

観客は阿鼻叫喚(あびきょうかん)で、音楽がほとんど聴こえないほどだった。舞台も客席も、狂気に満ちていた。音楽評論家・安倍寧さんはその客席にいた。

1958年、伝説となった第1回日劇エスタン・カーニバル。舞台上にいたのは「ロカビリー3人男」と呼ばれた平尾昌晃さん、山下敬二郎さん、ミッキー・カーチスさん。

マイクの前に立って歌うスタイルではなく、歌いながらギターを弾き、動き回るパフォーマンスのポップスは新鮮だった。日本の音楽シーンで初めてであろう。

海外の音楽を用いて巻き起こした熱狂は、後のポピュラー音楽やグループサウンズ(GS)ブームへの流れを作った。

今も役者等マルチな活躍をするミッキー・カーチスさんは、バンド「サムライ」で欧州に渡った。日本がGSブーム真っ盛りの頃、ピンク・フロイドらと同じステージに立ち、最先端のロックを肌で吸収した。しかし、帰国後にサムライとして出した作品は売れなかった。<時代の先に行きすぎた>のである。

商業的には成功しなかったこの体験も無駄ではなかった。70年代には音楽プロデューサーの仕事を始め、若い才能を見いだして作品を制作し、宣伝までも関わった。

矢沢永吉さんらが所属したキャロルやフォークグループのガロなど。それまでの日本の音楽界にはない雰囲気のミュージシャンを手がけ、成功を収めた。

 

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1971年7月17日、雷鳴の轟く豪雨の中、後楽園球場で行われたコンサート「ロック・カーニバル#6」も阿鼻叫喚だ。日本のロック伝説のひとつとして今なお語り草である。

当日の出演者は日本からモップス、カナダからマッシュ・マッカーン、アメリカからは麻生レミさん。そして、主役となるのがグランド・ファンク・レイルロード(Grand Funk Railroad, GFR)である。

マッシュ・マッカーンの演奏が終わる直前、球場内ステージ前に設置されたGFRの大きな看板が突風で吹き飛ばされた

聴衆は逃げ場もなく、ずぶ濡れのまま待つことになる。ついには雹まで降ってくる。

GFRは、1960年代末から70年代半ばにかけて、アルバム、ヒット・シングルを連発した人気ハード・ロック・バンドである。1969年にレッド・ツェッペリンアメリカ公演の前座をやった際、歌と演奏力で聴衆を熱狂させ、ツェッペリンを食ってしまった。

『ロコモーション』をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ全米1位を獲得。グランド・ファンク最大のヒットシングルになった。

 

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天候が回復する気配はまったくない。中止かとあきらめたとき、司会の糸居五郎さんの声がスピーカーから流れた。

<皆さん~! グランド・ファンク・レイルロードは必ず出演します。演奏を必ずやるといっています。もう少し待ってください>。

観客席では、映画『ウッド・ストック』のように「No Rain、No Rain」の声がスタジアム中に伝わり大合唱になった。

午前9時半、本来なら終演予定の時刻である。リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』が爆音で流れ始めた。

一塁側のダッグアウトからGFRが走って出てきた。稲光の中で『アー・ユー・レディー』の演奏。ついに始まった。

そのあとも大量の雨が降り注ぐ。GFRは激しい雨に打たれながらも演奏を続ける。『ハートブレーカー』で観客も一緒の大合唱。3万5000人の観客が熱狂に包まれた。

パワー全開のGFRのライブは約1時間。午後10時40分に最終曲『孤独の叫び』で終演した。激しい雷雨の演出も加わり、予想以上の熱演がロック伝説へと刻まれた。

私が、ネットで知り合った同年代の女性は、その観客の中のひとりであり、その中のひとりの男性と知り合った。その彼が今の“ご主人”と、うれしそうにおっしゃっていた。