昨日と違う自分を意識すると
本を読まなくなって久しい。原因はハッキリしている。パソコンとネットである。インターネット以前のパソコン通信で、活字中毒の自分が途絶えた。それでも、本は好きだ。今、最高に贅沢な時間は? と思えば、読書の時間かもしれない。
本は読む場所によって表情を変える。机の上で取っつきにくかった1冊が、喫茶店などの静かな空間ではやさしく語りかけてくれる。本を読むための旅などは最高。読みかけの本も見知らぬ土地で読めば新鮮なはず。数冊をカバンに入れ、目的のない日帰り旅行でもいい。
昔読んだ小説を読み返す旅もいいだろう。本はタイムマシンにも感じられる。この世にいない著者たちの思索や心に触れることがかんたんにできてしまう。そして、その中の時空間へも飛び込める。
「一番の近道は遠回り」だという。<近道しようとしていたらたどり着けないこと>って案外多い。鈍行列車の読書旅も楽しい。
読み継がれる本には、“どこかで聞いた話?” みたいな要素があるかもしれない。曲作りでも、どこかで聴いたような楽曲が流行るとか。テレビで玉置浩二さんが言っていた。
かつて“知的生活”という言葉が大ヒットしたが、その根底には読書があった。
<「つまらない知識の間食」で満たされ、本当に必要な「知的な飢え」を感じない状況を憂えていた>。ノーベル物理学賞の朝永振一郎さんの言葉である。
「心眼」に対して、「心耳(しんじ)」という言葉があるという。心のなかの耳をもって聴かねばならない宝物のことらしい。
「レジャー」は高度成長時代の流行語という。本来の英語は“ひま”という意味であるが、日本人が勝手に遊びの要素を潜り込ませたようだ。読書熱はあったが、ひまな時間を他に費やすことが多くなった時期でもある。
レジャー産業は消費者の「ひまな時間」を狙い、それぞれの“時空間商品”を売り込んだ。
多くの本に接すると、ジャンルを超えて“おもしろいもの”を描く作者に憧れる。本の中に限らず、“創作者”に関して興味が出てくる。
<職人になりなさい。職人になれない奴が芸術家になれるわけがない。自分で自分をアーチストと思うな。人が決めること>。作曲家・小林亜星さんが師匠の服部正さんから言われた言葉だ。
<昨日と違う自分を意識すること>。スポーツジムでトレーニングインストラクターが言う。
鍛えたいと思う筋肉を意識していく。人間は意識するかしないで筋肉の発達が変わる。
その前の自分と違うとの意識こそが、(漫然と過ごすことから)変われる。
こういうものだととらわれてきた“常識感覚”も、「脳の支配から離れること」で、余計な意味付けを削いで軽くなれるだろう。それが“成熟”といえるのかもしれない。意識して、自分の中にある既成概念をはずすと軽くなれそうだ。
作品のテーマで、受け手の既成概念を覆すものは受け入れられにくいが、そこに説得力を持たすことができればすごいことである。