日日平安part2

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赤木圭一郎とブルース・リー

 

もし、あの人気俳優が今もご健在であるのなら、今年79歳である。石原裕次郎さん主演の『紅の翼』で群衆の一人としてエキストラ出演したのが映画デビュー。

西洋的な風貌で、(当時のハリウッドスターであった)トニー・カーチスさんにちなみ、「トニー」の愛称で親しまれた。また、「和製ジェームズ・ディーン」と呼ばれることもあった。

赤木圭一郎さんである。

日活入社の翌年(1959年)に、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演。その後、アクション俳優として『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の無国籍アクション映画に主演した。石原裕次郎さん、小林旭さんに続く「第三の男」である。

歌手としても、ヒット曲『霧笛が俺を呼んでいる』をはじめ、25曲をリリース。リアルタイムではなかったが、私も映画とレコードで夢中になった時代がある。

石原裕次郎さんがスキー場でのケガにより代役となる映画『激流に生きる男』のセット撮影の昼休憩時に、撮影所内でセールスマンが持ってきたゴーカートを運転。

1961年2月14日12時20分頃のことである。外国製の車で、アクセルとブレーキが逆だったことから踏み違え、60km/h以上のスピードで倉庫の鉄扉に激突した。

 

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事故直前に『激流に生きる男』出演中で、撮影所にいた子役の江木俊夫さんは、赤木さんからゴーカートに誘われていたそうだ。通りかかった小林旭さんから「危ないぞ」と食堂へ誘われ、食事をしているところに大きな音を聞いた。

病院へ運ばれた赤木さんは、一時 意識を回復したが、一週間後に帰らぬ人となってしまった。享年21歳である。

1962年、18歳だった高橋英樹さんは、赤木圭一郎さんの代役で『激流に生きる男』の主演をした。大部屋の経験なしで、いきなり役付きの出演となった。当時の新人俳優としては異例のデビューだったそうだ。

赤木さんのプロマイドは、死後6年経った1967年まで、男優部門での売り上げ10位以内に入り続けたといわれる。

もし、武道家であり俳優としても輝いていたあの人がご健在なら、今年で78歳である。赤木圭一郎さんと(たったの)ひとつ違い。そのことを今知った。

ブルース・リーさんである。父親が役者だったこともあり、生後3ヶ月にサンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演したという。

1966年、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳を演武したフィルムがTVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢された。

1970年には、香港大手映画会社から独立したレイモンド・チョウさん設立のゴールデン・ハーベストと、1本1万香港ドルで、映画出演2本の契約を結ぶ。

 

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1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開。香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットで、ブルース・リーさんは香港のトップスターに躍り出た。

1972年、2作目の『ドラゴン怒りの鉄拳』では主演と武術指導を行い、次の『ドラゴンへの道』で、自ら「コンコルド・プロダクション」を設立した。そして、製作・監督・脚本・主演の四役を担ったのだ。

ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。1972年秋からは、リーさんの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタート。

その時、ハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がった。それで『死亡遊戯』の製作は中断されることになった。

1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。リーさんの意気込みは熱く、エキストラへの武術指導、脚本や撮影にも細やかな意見を出した。

1973年7月20日に、リーさんは、『死亡遊戯』で共演予定の女優の自宅で頭痛を訴え、昏睡状態に陥った。病院へ搬送されたが、死亡が確認。32歳であった。

世界各国で大ヒットを収めた『燃えよドラゴン』であるが、(公開時期をみると)ブルース・リーさんはそのことを確認できずに他界されたのではなかろうか。

リーさん急逝のため未完だった『死亡遊戯』は紆余曲折の5年後に、『燃えよドラゴン』の監督ロバート・クローズさん、サモ・ハン・キンポーさんを起用。

ブルース・リーさんがクライマックスのアクション・シーンのみを撮影していたので、代役にユン・ワーさんやユン・ピョウさんを使い追加撮影して完成した。代役は本物出演カットとつないだり、後ろ姿やサングラスでリーさんらしさの演出が施された。

実は今、何十年ぶりかでその映画を観ながら、この記事を書いているのである。

 

 

参考:Wikipedia