日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

推敲を重ねた180文字の時代

 

物事の表記で、「“1個"、“2つ"、“3メートル"、」などと、数量を示すことを基数詞といい、「“1番"、“2回目"、“第3回"」のように、順序や順番では序数詞と呼ぶとのこと。

<『田園』で知られるメロディーは、ベートーヴェンの交響曲6番の1楽章に出てくる・・・>などの記述では、“第"や“目"を付けずに、順序、順番を表す。しかし、「ベートーヴェン 交響曲第6番 田園 第1楽章」の方が端的でわかりやすい。

一姫二太郎」は、<最初が女の子、次が男の子の順番がよい>とのこと。本来、序数詞的な使い方のはずだが、<女の子1人、男の子2人>という基数詞にとらえる人もいそうだ。「一番姫二番太郎」なら間違えることもない。

昨年亡くなられた詩人の大岡信(まこと)さんは、「どんなに難しいことを考えていても、人に伝わらなくては意味がない」と、人へ伝える姿勢にこだわった。

 

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大岡さんは、朝日新聞折々のうた』での名解説者としてもおなじみだ。1979年に、古今の短歌や俳句、現代詩、歌謡などをとりあげ、180字で解説・批評するコラムを始めた。もちろん、140字のツイッターの影も形もない時代であった。

推敲を重ねたその短文は全6762回にものぼり、言葉への信頼を訴える太い幹へと育った。大岡さんのことを映画の世界に例えて、黒沢明さんと淀川長治さんを一人二役で演じた人ともいわれた。

<いとけなき日のマドンナの幸(さ)つちやんも孫三(み)たりとぞeメイル来る>。
ある年の歌会始に、大岡さんが詠んだ歌という。詩人という枠に納まらない表現者である。

<おおおかぁ/早すぎるとはもう思わない/でもおれたち二人の肉だんごもいつかは/おとなしくことばと活字に化してしまうのかな>。こちらは、親友の谷川俊太郎さんが大岡さんへ3年前に贈った詩である。

 

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大岡さんに、マリリン・モンローの死を悼んだ詩『マリリン』がある。俳人長谷川櫂さんはその一節を引用して大岡信さんへの追悼文を記した。

裸かの死体が語る言葉を
そよぐ毛髪ほどにも正確に
語りうる文字はないだろう
文字は死の上澄みをすくって
ぷるぷる震える詩のプリンを作るだけだ

人の死を前にしては、言葉も文字も詩も色を失う。しかし詩人は詩を作る。言葉の彼方にあるものを言葉でつかまえようとする・・・と。なぜなら世界は言葉でできているから。

舌先三寸で人を丸めこむ人物が国権の中枢部にいると嘆き、「人が互いに信頼し合って暮らすところでしか、社会の土台は固まらない。その基本は、相手の言葉が信用できるものであることを、他者がちゃんと認識できているか」。

相手の理解を得る努力を尽くさずに、おかしな言い訳や空疎な言い合いに終始する政治家や経営者。ネット上にもあふれる中傷。

大岡信さんは、言葉を「敏感な生きもの」と呼び、「自堕落な使い方を続けるなら、いとも簡単に劣悪な素材に変わってしまう」と警鐘を鳴らした。