放火ほど容易ではない「消化」
ブログネタに窮すると、一年前で同時期のスクラップ記事を読み返すことがある。一年前にこんなことがあったのか、と忘れかけているものは多い。しかし今は、一年前のニュースがピッタリと重なり、逆に驚いている。もちろん、森友学園騒動のことである。
1979年、戦闘機売り込みをめぐる政界工作の疑惑の渦中で、大手商社の副社長は緊張のあまり署名に手間取る。「書けない」とのつぶやきをテレビの音声が拾った。手が震えて止まらないのである。国会の証人喚問というと、今でも思い出す場面である。
「記憶にございません」の連呼もこの頃だったのでは、と私の記憶にはある。一年前の国会にて籠池泰典・森友学園理事長(当時)はさらさらと署名した。質問する議員には目を向けて「的外れと思います」と応じる。そして、「事実は小説よりも奇なり」と言い放つ。
100万円授受の場面で籠池さんは、安倍昭恵首相夫人と一対一の場でもらったと述べた。付き添い職員を外す“お人払い”で、封筒の中の“金子(きんす)”がやりとりされた、と臨場感たっぷりに語られた。まるで時代劇のようであるが、「確かに、もらった」と言い切る籠池さんであった。
一年前の国会では、なにかにつけて「忖度」という言葉が都合よく使われ、うやむやでハッキリしないままになった。それにしても、庶民感覚では百万円をめぐる記憶の食い違いを理解しがたい。
<消火は放火ほど容易ではない>。芥川龍之介さんの『侏儒の言葉』にある。あった事実は証明できても、なかった事実は証明しにくいという。
昨秋、安倍首相は「“もり・かけ”問題」を消火しようと、必要のない解散選挙を600億円かけて断行した。その後、支持率が回復して有頂天だったところへ、今回の森友学園問題が再燃した。今は選挙前より状況が悪化している。
アメリカの貧困街・ブロンクス区(ニューヨーク市)で発祥のヒップホップは、サンプリングという合理的な作曲手法が用いられたそうだ。サンプリングは主に、ジャズやファンクなどの音源から“声”や“音”などを抜粋する“切り貼り”のようなものだ。
ヒップホップの世界で使われている「作曲」という言葉は、まるっきりの“無”から何かを創造するという意味ではなく、すでに存在している名曲から、気持ちのいい部分を切り取りドラム・マシーンを叩いてできたビートの上にのせる作業なのである。
1970年代、ヒップホップが誕生してからしばらくは、この手法がポピュラーなものだった。著作権の問題さえなければ、これほど合理的な作曲法はない。
今の政府、与党は著作権ならぬ国民の無視で、おいしいところだけを集めるサンプリングに走っているのではなかろうか。なにをやっても許されるとの奢りが、この先も出てきそうな気がしてならない。