日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

我慢なく惜しむ人も形を好む

 

今は「我慢しない時代」なのらしい。音楽プロデューサー・松任谷正隆さんが、新聞コラムに記していた。

例えば、電話が一家に1台だった昔は電話がかかるたび親に干渉された。干渉をする親にしても電話のない時代は、手紙のやりとりで苦労した。差出人は誰か、手紙を開封されたかもしれぬ。

いつの時代も悩みは変わらない。ただ、違っているのはタイム感だという。手紙の時代は郵便の回収、配達の時間が限られ、仕事中なら私用電話はダメ。一人暮らしでないと、深夜の電話も難しい。

メール、SNSは手紙と電話のいいとこ取りで、勝手に送っておけば読んでおいてくれる。しかし、そこにタイム感が加わるから話はややこしくなる。連絡がとりやすいため、既読スルーを気にしたり、待ち時間を思いやれる人が少なくなるのだ。

 

1987

 

気持ちを我慢しない、時間を我慢しないという今のコミュニケーションで、新しいマナーはその落差の中にどう共存していくのだろう。どこに鈍感になり、どこに敏感でいたらいいのか。判断がむずかしい。

<人間というものはケチなもので、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問…>。こちらは、太宰治さんが『斜陽』にて「経済学」を語ったくだりである。

ケチという言葉を言い換えて、“惜しむ”学問が経済学なのか。お金を惜しみ、資源を惜しみ、時間を惜しむ。

今のコミュニケーションは、“時間を急かす”ことが前提で、“時間を惜しむ”ような情緒が欠落しているような気がする。

経済活動では、無駄のない最短の道順を追求する必要がある。国の財政も家計のやりくりも、地道ながら尊く“惜しむ”心があって初めて成り立つものなのだから。しかし、この国もあの手この手の税金集めで、“時間を急かす”ことばかりが目立つ。

 

1988

 

昨年、アメリカの音楽業界に激震が走った。2016年米国で「最もCDを売ったのはモーツァルト」だと、大きなニュースになった。

モーツァルトの没後225年にちなみ、(昨年)10月28日にリリースされたのが、200枚組のボックスセットの「モーツァルト225」であった。そのセットが125万枚のCDセールスに達してしまったのだ。

昨年の米国のCD販売枚数は前年から11.6%減少し、過去最低の5,000万枚。対照的にストリーミングは急成長している。それは日本も同様であろう。

モーツァルトが売上1位になった背景としては、クラシックファンの間では依然としてCDを買い求める傾向が強い。オーケストラの演奏を聴くメディアとして、ストリーミングよりもCDが適しているらしい。

また、ボックスセットがギフトとして人気を獲得した点も大きい。贈る場合、形に残る物のほうが好まれるから、とのこと。

自分も、CDを介することなく手っ取り早く聴ける配信音楽が主流の今、かつて当たり前だったことがとても新鮮に映る。やはり、今のコミュニケーションにドップリと浸かっているせいなのだろうか。