日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

目が離せないAIと配信革命

 

AI(人工知能)ブームは、今までに2度起きているという。

1回目は、1950年代半ばから60年代。コンピューターの発明から10年ほどで、今のスマートフォンと比べものにならない貧弱な計算能力だった。

2回目は80年代から90年代で、製造、医学などのノウハウや専門知識をAIに埋め込む“エキスパートシステム”が注目され、日本の大企業も乗り気になった。

人間から知識やノウハウを聞き出すことが必要となるが、人間の持つ膨大な常識は無意識に使っていることが多い。それを取り出すことができず、とんでもない失敗作を作ったりもした。「役に立たない」との批判が起き、研究は下火になった。

そして2010年代に3回目のブームが起き、今がその真っ最中らしい。
10年代に入ると、AIがトップクラスのプロ棋士に勝った。将棋関係者から「人間に勝つことなどありえない」とバカにされ、AI将棋に取り組んだ成果であった。

 

1913

 

今のブームと、これまでとの違いは“技術の向上”にある。
コンピューターの計算速度が速くなり、自ら学ぶ機械学習や深層学習も進んだ。データもそれまでよりも豊富である。

ただ現実は、各企業の社長が「AIをやるんだ」と部下へ号令をかけても、何をやればいいかわからないままで、自社に蓄積されたデータをAIで生かす難しさに直面するケースもある。

AIにデータ入力するにはその統一をしないといけない。今までのデータは人が扱うことを前提としていたため、データの書式などがばらばらで時間やお金も嵩む。

AIは人間の脳で行う作業を、コンピューターとソフトで模倣する技術である。「人間の知的作業でAIにできないことはない」との説もある。

漢字変換ソフトのおかげで漢字を書けない人が増えた。しかしソフトがあれば、難しい漢字も使うことができる。AIやロボットの助けも必要になり、人間はAIとペアで能力を向上していくようになるだろう。

 

1914

 

現在の「動画配信」は、“テレビ界”が築き上げてきた常識をぶち壊す存在といっても過言ではなさそうだ。その前の、音楽配信ダウンロード販売による、CDの売上枚数激減がお手本だ。

日本のテレビ界が、独自のお気楽感覚でやってこれたのはふしぎだ。
放送は“免許制”であり、他業種からの新規参入はむずかしい。外国人による株式所有は放送法によって制限されているとか。

ここ数十年、テレビ業界は他業種からの“価格破壊”などにおびえることもなく、外国資本に脅かされる必要もなく過ごしてこれた。

「配信」は“通信”のジャンルに属するため、放送法の縛りを受けないし外国資本の参入に対する制限もないようだ。

配信事業を始めるのに免許や許可などの手続きを必要とせず、描写などについての表現も自由で、おもしろいエンターテインメント作品が見られる。

実際に、アマゾンのスティックをテレビに挿すだけで、ふつうのテレビ放送のごとくネット上のあらゆる動画や音楽が、かんたんに手に入るということは驚きであった。

いつでも視聴できると思えば、ダウンロードの容量もまったく必要がない。
配信の良いところは「予定調和ではなく意外性」なのだと思う。自分の意志では視聴しなかった名作との出会いが楽しみで、(私の)テレビ放送の番組視聴量は激減中である。