日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

相手の表情をうかがう作法?

 

1983年6月の公開だというから、もう34年も前の映画ということになる。
森田芳光監督で主演は松田優作さん。『家族ゲーム』という映画である。

家族が心から向き合うことを避けて暮らしていることを表現するため、(一家が)細長い食卓で横一列になって食事をするシーンが印象深い。

ところが今は、このシーンがいたるところで見られるため、映画やドラマの1シーンとして有効かどうかはわからない。

ファミリーレストランやファストフード店で、スマートフォンをテーブルに置き、ろくに話もせずに黙々と料理を口に運ぶ人々の姿は当たり前。歓談の場だった居酒屋でも、スマホに夢中な客の姿を見かけることがよくある。

 

1881

 

仲間と面と向かって食べ物を口にするのは、一部の類人猿と人間だけらしい。
以前に読んだ作家・藤原智美さんのコラムにあった。

知能が発達した(チンパンジーなどの)猿は、食べながら相手の表情をうかがったりする。
“食べる”という行為は他者との対面であり、相手と向き合い食べるのが食事の基本形らしい。

人も本来は向き合って食べるのが食事の基本形であり、「食」はコミュニケーションの原点なのだという。相手の表情や顔色を読みながら、食べ物を味わい満足したり、ときにいさかいが起きたりもする。

柳田国男さんの説によれば、江戸から明治に移ると人々は以前ほど泣かなくなったという。教育の普及で、人々は感情を言葉で伝える技術を磨き、涙という“身体言語”の出番が減ったそうだ。

今の“身体言語”を思うとふしぎである。無言で対面する目の前の相手に、スマホタブレット経由にて(コミュニケーションアプリの)LINEで対話をすることなのだろうか。

 

1882

 

<はつなつのゆふべひたひを光らせて 保険屋が遠き死を売りにくる>
歌人塚本邦雄さんによる、保険の勧誘を詠んだ一首である。

自分の生と死が“何々プラン”ということになっている。思えばふしぎな商品である。
高額な買い物なのに心が躍らない。まずは残される家族を思い、“遠き死”ではなく“長き安心”を買うのだろう。

<人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ>。
こちらは、元東大総長の南原繁さんが詠んだ歌である。

1941年(昭和16年)12月における日米開戦時の国力差である。
電力量6分の1。航空機の生産量6分の1。鉄鋼10分の1。原油生産量740分の1。

現実の数字を冷静に見つめる目も、引き返す決断力も持ち得なかった歴史の一瞬である。ただ、“相手と向き合い食べる”という食事の基本形は、今よりも確実にあった時代である。“身体言語”を駆使した人も多かったにちがいないはずだ。

 

今週のお題「私の『夏うた』」