日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

なんのために鳴くホトトギス

 

炊飯器で炊いたご飯の、抜きん出ておいしい部分は表面だという。表面をすくい取って口に運べば、甘みがとても深いらしい。

うまい米は上へ上へと集まる。しゃもじで混ぜるのは“おいしさを均等にするためだ。

人間の社会でも、おいしい部分は上に集中する。しゃもじで混ぜる役目は政治家か、と思いきや、彼らは“上から目線”で(味をしめた)おいしいモノを抱え込んで離さない。

深い味わいのある言葉がわからなければ、伝統文化を理解することができない。
相手に語りかける言葉の品位によっては、人間関係が豊かになることもあれば、傷つくこともある。数学や論理的思考の能力も国語力と結びついているはず。

 

1867

 

古今和歌集にある夏の歌34首のうちで、28首にホトトギスが詠まれている。
昭和の初め、随筆家・寺田寅彦さんは信州・星野温泉でホトトギスの声を浴びるほど聞いたという。

物理学者でもあった寺田さんは、随想『疑問と空想』にて<なんのために鳴くのか?>と問いかけた。

科学者らしい考察で...
多くは鳴きながら飛ぶ。雌を呼ぶつもりならば、鳴き終わった時にはもう別の場所に移っているので用をなさない。

<おそらくは自分の発する音波が地表面に反響するのを利用して、飛行に必要な測量をしているのだろう>、との結論に達した。

言葉を発し、その反響に耳をすませ、自分が現在いる位置と進むべき方角を確かめる。
思えば人の世も、ホトトギスと同じに音波測量で成り立っているのかもしれない。

 

1868

 

「感性」を調べてみると、心に深く感じること、知性や意志と区別された感覚、などと出てくる。それは、欲求、感情、情緒などに関わる心の能力であると。

巷では成熟社会を迎え、商品開発のカギは価格の安さや高品質だけではなく、感性価値が決め手になるようだ。

その昔、俳優の小沢昭一さんが東京・四谷の街を歩いていたら、お稲荷さんの前あたりから妙な話し声が聞こえてきたそうだ。

何かと見ると、先代の林家正蔵さんが誰もいない所で落語を演じていた。
たずねると、正蔵師匠は「神様に聞いてもらっている」と答えた。

つまり、“今日(こんにち)さま”に捧げる、ということだったらしい。

<その日一日を守ってくれる神様、おてんとうさま、今日さまという昔懐かしい言葉に久しぶりで出会った>との言葉を、小沢さんはその回想に添えた。

一斉に世の中が夜行性の魔法をかけられたかのように、おてんとうさまや今日さまを忘れた出来事が続いている。嘆かわしいことである。

とはいえ、日が沈みアルコールが入ると活き活きしてくる昼行灯(あんどん)の私が、言えた義理でもないのだが。