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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

美輪明宏さんの妖艶な交友録

音楽・アーティスト

 

美輪(丸山)明宏さんの生まれ育った繁華街は、長崎・丸山花街の入り口にあり、隣が劇場の「南座」、2軒隣は美術骨董屋さんだという。前の楽器屋さんの蓄音機からは、一日中クラシックから流行歌までが鳴っていた。

その楽器屋さんで、フランス語の勉強のつもりで手に取ったのが、古き良き時代のシャンソンのレコードで、片っ端から聴いたという。それが、のちにシャンソン歌手になるきっかけのひとつになる。

劇場では様々な芝居がかかり、幼い美輪さんは支配人夫婦にかわいがられ、いつも舞台の真ん前に陣取った。1930年代は映画の黄金時代でもあり、フランス、アメリカ、日本の名作を見る機会に恵まれた。

実家のカフェーで働く(いわくありの)インテリの人たちから、美輪さんは文字を教わった。
幼い頃から“かわいい”、中学では“きれい”と言われ、その賛美は「ごきげんよう」とご挨拶を受けるような感覚だった。

東京の国立音楽大学付属高校1年生の夏休み直前に、「美少年募集」との小さな新聞広告を見て、すぐに応募した。募集先は、東京・銀座4丁目交差点近くで、三島由紀夫さんの小説『禁色』(1951年)に登場する「ルドン」のモデルになった店だ。

1階が喫茶店で、2階がクラブのその店では、文化人が多く、三島さんも常連客であった。ある日美輪さんは2階にいた三島さんに呼ばれた。

「何か飲むか?」
「芸者じゃないから結構です」
「生意気でかわいくない子だな」
「きれいだからかわいくなくてもいいんです!」。

これがふたりの初対面の瞬間なのか。興味深い対話である。
その頃には、進駐軍のキャンプ回りも始め、ステージデビューもしている。

音楽高校1年の冬、美輪さんは学費も下宿代も払えなくなって退学した。
衣料品などを扱う父の事業が傾き、長崎の実家が破産したのだ。

路頭に迷い、東京・新宿駅で3か月ほどホームレス生活を送っていた頃、知り合いの大学生から、早稲田の喫茶店でシャンソンの会をやるので、前座で出演しないかと声がかかった。

その店で歌っていた宝塚出身の橘薫さんが美輪さんの歌を気に入り、
「今度、銀座に新しいキャバレーができて歌手を募集しているから、行ってみたら」と、紹介状を書いてくれた。

 

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銀座7丁目角の「銀巴里(ぎんぱり)」である。
1951年創業のキャバレー「銀巴里」は、のちに日本初のシャンソン喫茶となり、多くの文化人に親しまれた。美輪さんのほか、金子由香利さん、加藤登紀子さんらが活躍した店である。

1950年代半ばの「銀巴里」には、多彩な客が集(つど)った。
川端康成さん、江戸川乱歩さんのような大御所。三島由紀夫さん、吉行淳之介さん、安岡章太郎さん、遠藤周作さんら新進の作家たち。そして、当時風来坊の野坂昭如さんや学生だった寺山修司さんたちも。

画家・岡本太郎さんは、フランス語で『巴里の屋根の下』の主題歌を、時々飛び入りで歌ったそうだ。東郷青児さんも美輪さんのファンで、よく通った。

東郷さんとの出会いは、銀座で東郷さんと一緒にいた友人が、美輪さんを見つけて「絵のモデルになってくれませんか」と声をかけたことからだ。
「歌手ですから」と、美輪さんは断った。

江戸川乱歩さんとの出会いは、美輪さんが「銀巴里」のステージに立ち始めた17歳の頃である。乱歩さんご贔屓の十七代目中村勘三郎さんが「銀座ですごい美少年が歌っている」と触れ込んで、連れて来たそうだ。

読書少年だった美輪さんは乱歩作品もほぼ読んでいて、すいすいお話ができたと言う。

探偵の明智小五郎に憧れ、
「先生、明智ってどんな人?」と尋ねると、乱歩さんは手首を指しながら、「ここを切ったら青い血が出るような人だよ」と言った。

「わあ、素敵ですね。長身白皙の美青年で冷静沈着。どんな時も驚きあわてず、頼もしくて優しくて、神秘的な感じですもの」と返したら、「ほお、そんなことがわかるのかい。じゃあ、君の腕を切ったら、どんな色の血が出るんだい?」と乱歩さん。

「七色の血が出ますよ」と美輪さんが応えると、「ほう、面白い。それなら切ってみようか。おーい、包丁持って来い!」。

美輪さんはすかさず言った。「およしなさいまし。切ったら七色の血から七色の虹が出て、お目がつぶれますよ」って。
「その年でそのセリフかい」と乱歩さんはさらに面白がったという。

美輪さんが三島さんの脚本で『黒蜥蜴』を演じた68年には、乱歩さんが他界されていて、「ご覧いただけず残念」と(美輪さんは)語っていた。

 

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ヨイトマケの唄』のヒットで暮らしがようやく上向きになった頃、美輪さんは「銀巴里」に一ファンとして来ていた寺山修司さんという天才と親しくなった。

アングラ小劇場ブームの立役者でもある寺山さんは、1967年1月に「演劇実験室 天井桟敷」を結成。67年4月、『青森県のせむし男』で天井桟敷は旗揚げした。その台本が面白いと感じた美輪さんは依頼を受け出演した。

東京・赤坂の草月ホールは、3日間の公演予定で観客を収容しきれず、アートシアター新宿文化に引っ越し興行し、爆発的なヒットとなった。

気をよくした寺山さんは続けて、美輪さんを主役にした『毛皮のマリー』を書いた。

新宿が政治に、文化に、燃えていた時代である。
芝居は、午後10時に通常の映画上映が終わってから始まるので、終了時刻は夜中の12時を回る。

ある日寺山さんが、終わってから「もう1回やってください」と美輪さんに頼んだ。
「何言っているの。真夜中にお客なんか来やしないわよ」と言いながら美輪さんは外を見ておどろいた。前の大通りが人でぎっしり埋まっていたのだ。劇場のドアを開け放し、ロビーまで観客を入れて追加公演となった。

1967年の『毛皮のマリー』公演は、興行的に大成功を収めた。

美輪さんはその後、他の芝居や映画で忙しくなり、寺山さんの「天井桟敷」とはご無沙汰になっていく。

16年を経て、東京・渋谷の西武劇場(現パルコ劇場)で、美輪さん主演による『毛皮のマリー』の再演が決まった。1983年4月、寺山修司さんはその稽古中に倒れ、5月4日に47歳で亡くなった。

6月10日からの舞台は、はからずも寺山修司さんの追悼公演になった。

寺山さんは、エキセントリックで気が小さくて、それでいてふてぶてしいところもあって、相反するものをいっぱい持っている人だと、美輪さんは言う。

寺山さんと三島さんはよく対比される。二人と一緒に仕事をした美輪さんの印象では、その膨大な読書量からくる知識といったらいい勝負とのこと。

<叙情的でため息が出るほど甘くせつなく美しいものを愛する感覚を生まれつき持っていられて、そういうところはよく似て違いを探せば、三島さんは、高級志向で都会的なものが好き。市井の下品なものは受け付けない>そうだ。

 

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三島さんは、子どもの頃からの愛読書の一つである江戸川乱歩さんの『黒蜥蜴』を戯曲化し、1961年に発表し、62年には初代水谷八重子さんが初演した。

<自分の芝居は『鹿鳴館』以外客が入らない、皆こけていると言われて悔しい。見返してやりたい>と、三島さんは漏らしていたらしい。

1968年4月、渋谷の東横劇場での美輪さん主演による『黒蜥蜴』の公演は大ヒットし、連日キャンセル切符を待つ長蛇の列になった。

松竹で映画化も決定した。監督に起用されたのは、当時無名に近かった深作欣二さんである。映画には、三島さんがボディービルで鍛えた肉体を自慢するかのように、人間の剥製として登場した。

三島さん出演条件の裏話として、美輪さんとのキスシーンを作ることを、深作監督が(美輪さんに)内緒で決めていたという。

さて、そのシーンの撮影風景である。

美輪さんがちょっとだけキスしたら、三島さんが「たったそれだけ?」と言った。
<私は「死体が口をきいちゃいけません!」と返しました>と美輪さん。

美輪さんが三島由紀夫さんと最後に会ったのは、あの市ヶ谷での自決事件の1週間前。
美輪さんは35歳の時であった。

日劇の『秋のおどり』に出演中の美輪さんの楽屋を、珍しく一人で訪ねて「三島です」と言って、真っ赤なバラを両腕いっぱいに抱えて入って来たそうだ。
いつものように冗談を言いながら去って行った。

<その抱えきれないほどのバラの花は、「これからのコンサートや舞台の分だよ」という意味だったのですね>。美輪さんの忘れ得ぬシーンであった。

 


参照:読売新聞『時代の証言者』

 

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