日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

言葉を獲得する以前のコミュ

 

人工知能」や「ロボット」という単語が氾濫する昨今、(すでにある)身の周りのものを見ても、私にはロボットのように感じてならない。

たとえば全自動洗濯機。スイッチひとつでなんですべてができてしまうのだろうか?
使う度に感心する。二槽式洗濯機に比べたら格段の進歩である。二槽式にしても、「たらいと洗濯板」から見れば、夢のような道具であったはずだ。

調理家電の自動化もめざましいものがある。油なしで(熱風で)加熱して揚げる「ノンフライヤー」におどろいていたら、レシピは“ほったらかし”で「煮る・揚げる・いためる」を自動でこなす電気無水鍋なるものも登場。

食材から出てくる水分を用いて、適当な大きさに整えた食材と調味料を入れれば、手を加えなくても調理してくれる家電なのだ。

肉じゃがは、適当な大きさに切ったタマネギ、ニンジン、肉、ジャガイモと調味料を入れ蓋をするだけ。出来上がり希望時間などを設定し、あとはそのまま。

カレーも同様に具材とカレーのルーを入れボタンを押すだけ。食材が崩れないように硬さなどをセンサーで判断するそうだ。

 

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「ITを自己表現のツールに、世界を変える力を持つスマホ世代」などと言われて久しい。今のハイティーンは“スマホ世代”から進化した“動画世代”だとか。大人の目は介在せず、投稿は楽しいことを近くの友だちに見せるという感覚で。

一昨年の調査では、18~19歳の利用率はLINEが9割、ツイッターが8割で、スマホの利用目的は「友人や家族とのコミュニケーション」、「写真や動画を撮る」、「動画、ゲームなどを楽しむため」などだ。

編集技術がとても高く、何を発信するかをよく考えている一方、豊富な情報量に慣れて、文字情報の必要性すら感じなくなっている。SNSなどを通じて誰とつながっているかがわかり、人間関係が『見える化』されている。

ラクダが砂漠に棲めて、キリンが棲めないのはなぜだろう。「背が高すぎるんです」と登場人物が語る。推理作家ユッシ・エーズラ・オールスンの小説にあった。

「キリンの場合、見渡すかぎりここには砂しかないと悟ってしまいます。幸運にもラクダはそれがわかりません」。オアシスがすぐ先にあるかもしれない、と期待しながら進めるのだという。

人間もラクダに似て、見えるのは“今”だけで、あした何が起きるかは知らない。知らないおかげで、人生の旅が続けられる。

 

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人が一定の信頼関係を持てると思う知人の数は150人ほどで、それが脳の大きさに適する集団の規模だという。

人間は食物を仲間のところへ運び一緒に食べるようになった。バラバラで食べるサルに対し、“共感力”を発達させ、家族を営み150人程度の共同体をつくった。

(言葉を獲得する以前の)人間がもたらしたコミュニケーションは<一緒に食べること>だった。

現在も言葉以前の交流が大切らしい。握手し、抱き合うことなどの触覚は大事で、「実際に会わずネットだけでつながる」という近年の傾向に、人間の身体はまだ適応していないとか。

現代人のペット熱などもその裏付けで、人は効率性だけでは生きられない。
思えば自分も、生身の身体を使って人とつながる意識が希薄になっている。

家電やスマホも、被災などで電気がつながらなくなると使えない。
いったい今の生活はどうなるのだろうか。いつも気になる。

その状況では、全自動洗濯機より便利な道具は「たらいと洗濯板」であり、電気無水鍋も役立たずである。