岡林さん弾き語りは爆笑の渦
岡林信康さん。若い頃、カリスマ性を強く感じたアーティストである。
1960年代後半に、多くの学生や若者たちによる“フォークゲリラ”と称された反戦集会が行われた。駅前などで反戦的なフォークソングなどを歌った。そのときの定番曲が岡林さんの『友よ』である。
社会の不合理にめざめ、社会主義運動に身を投じた岡林さん。
それらの運動と、創作される反戦歌が受けて「フォークの神様」とも呼ばれた。
70年代になり、若者たちは「私たち」から「私」、「ぼく」になった。
神様と崇められた岡林さんは、ファンの想いとのギャップから、京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活をしていた。
5年間の農耕生活を経たある日、演歌路線の新アルバム『うつし絵』をひっさげ、1975年に復活コンサートを中野サンプラザで行う。
私にとっては初の生歌が聴けるチャンスで、2日連続で堪能した。
先週、41年ぶりに岡林信康さんの弾き語りコンサートに行ってきた。
ファンも歳をとり場内和気あいあいで、爆笑の渦だった。若い頃よりゆったりと楽しみながら盛り上がった。
相変わらずの、落語トークのMCがおもしろい。
さだまさしさんのMCは有名であるが、岡林さんはさださんより早くからやっていたことになる。
お馴染みの名曲を続々と披露してくれたが、何十年も聴いていなかったはずなのに、自分の中の感覚ですぐに蘇るのがふしぎでならなかった。かつては、自分でも岡林さんの曲をさんざん歌っていたから、擦り込まれているのかもしれない。
ステージ後半で、ピアノセッションの相方がなかなか出てこなかった。
ピアノの方が遅れて出てきて、岡林さんのトークが始まる。
だいぶ話し込んでから岡林さんはハタと気付いた。その前の1曲を飛ばしてたのである。だから、ピアノの方が出てこなかったのであろう。相方をまた楽屋に引っ込ませてから歌った。
その曲『チューリップのアップリケ』を聴き逃すところであった。
『橋~"実録"仁義なき寄り合い』でも終始笑いっぱなしで、場内は大爆笑だった。
曲はよく知っていたが、まさかステージで披露してくれるとは思ってもみなかった。
農耕生活での実話をリズミカルで親しみやすいメロディに乗せたコミック・ソングである。
登場人物はすべて実名だと言っていた。しかし、時の移ろいで生きている人はひとりだけになっているそうだ。
過疎村での寄り合いの議事録を歌詞にしているのだが、実にうまく書けている。
歌詞のすべてをご披露したいところだが、問題になっても困るので私が適当にアレンジして書いてみた。
◎ 『橋~"実録"仁義なき寄り合い』の概要
寄合いの席で 区長さん。
「村のあの橋ゃ もう駄目だ。耕耘機を通すのも怖いほど」。
先日、役場に願うたところ村でもなんぼか銭出せ、と言われた。
「なんとしょう? 銭は惜しいし命も惜しい。何ぞよい思案はないかえ?」
すると、万次郎さんが身を乗り出した。
「皆の衆、聞いておくれ。台風なんぞの災害で橋がポキリと いったときゃ、お上が全額 持つそうな。そこでどうじゃろ、大水が出た時みんなでのこぎりを持ち出し、橋げた切ったらば」。
岩太郎さんが煙草をふかしながら言った。
「それはまずいぞ 。それそれ隣のあの村じゃ。去年の大水の時、区長の号令でみんながのこぎりもち出して橋げたギコギコやったのが、お上にばれて大騒ぎ。やばい橋なぞ 渡れんぞい」。
居眠りしていた長さんがむっくり起きて、「皆の衆どうじゃろ、冬の雪かきにかいた雪をば橋の上へみんなで捨てたらよかろうが」。
大あくびしながら続けた。
「村中の雪をせっせとひと冬集めりゃかなり重いもの。そうすりゃポッキリと落ちて流れて、うまくゆくのではないじゃろか」。
それは良いと、みんなが賛成 しかけたら、綱ちゃんひとりが青い顔で必死に訴えた。
「待っておくれよ皆の衆。俺らの家だけ川向こう。橋をば雪でふさがれりゃ、家の出はいり何とする。おまけに、あの橋が落ちりゃええけど落ちぬ時は、馬鹿をみるのは俺らひとりじゃ」。
そんなわけであれこれと、真面目な意見は出たけれど、思案はなかなかまとまらない。
そして、橋は流れずお話は、下の方へと流れてく。あそこの後家はん、だれそれと。ああでもこうでも何でもない。
そのうちみんなで酒を呑み、歌をうたって サヨウナラ・・・♪♪。