飄々とした一面に心惹かれ
長年、居酒屋とは縁があり、人並み以上に呑みすぎるわが身としては、店のトイレにもお世話になっている。
年を経て店のスタイルも変貌しているが、いつのまにかトイレの貼り紙が礼を言うようになってきた。
昔の常套句は、“一歩前へ”や“○○こぼすな”であった。どこか命令の響きがあったのが今は「いつもきれいにご利用いただき、ありがとうございます」とお礼口調なのである。
<衝撃を受けた。私に云っているのか。私が「いつもきれいに」おしっこしているところを誰かがみていた?>。
エッセイに記したのは、歌人・穂村弘さんである。その貼り紙との初対面の感想らしい。こういう人が好きである。
たしかに自分以外に知らない秘めたる作法で、事に及ぶ前に礼をいただくのはおかしい。見事に代弁して下さっている。
この方も飄々として楽しい人だった。放送作家をスタートにマルチな活躍をされた青島幸男さんだ。
1974年の参院選全国区に立候補した際、「参議院は良識の府なんだから、声はり上げて頑張ってというスタイルの選挙は違うよね」と言い残し、選挙期間中はヨーロッパ旅行へ出かけた。
“すっぽかし戦術”と言われれたが、全国区3位で当選を果たした。
フランス人画家のポール・ゴーガンは株式の仲買人として勤めながら、趣味で絵筆をとる日曜画家だった。楽園を求め、“月”を追い、南太平洋タヒチ島に移り住んだのは画業に専心して9年目で42歳のときだった。
英国作家サマセット・モームは、その生涯に想を得て『月と六ペンス』を書いた。
“月”は夢と理想、“六ペンス”は現実のイメージだという。
画家という職業を知らなかった島の人々から、ゴーガンは<人間を作る人間>と称された。絵筆を用いて“人間”をつくりだす風変わりな人間と映ったようだ。
生前、名声と無縁であったゴーガンの作品に心惹かれるのは、絵の中で緩やかに流れる時間を眺め、文明社会の忘れ物を思い出すからなのだろうか。
山本周五郎さんの『青べか物語』で、主人公がつぶやく。
「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」。
劇作家・ストリンドベリの著述にある一節だという。
周五郎さん自身も、その言葉を心の支えにしたのかもしれない。
味わい深い周五郎さんの作品に、励まされた経験をもつ読者は多いはずだ。
時空を超えた対話を可能にする書物はタイムマシンに似ている。
米国の作家レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』は、情報統制で読書が禁じられた近未来が描かれている。
本の印刷も所有も禁止。隠し持っていることがわかれば、家もろとも焼かれ、逮捕される。そのことを、人々は疑問に思わない。
耳に装着する超小型ラジオや、部屋の壁面を覆う巨大テレビから流れる音や画像に没頭し、ものを考えることをやめてしまったからだ・・・と。
ネットの時代、本なんて面倒なものを読まなくても困りはしない。
今の自分もそうなりかけているような気がする。
何とも危なげで心もとないことに気づいていないのかも知れない。
タイムマシンに乗らなければ聞くことのできない言葉もある。
もちろん、飄々とした人間との出会いや対話もできるはずなのだから。