日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

気むずかしくも慕われた漱石

 

今年の12月で没後100年になる夏目漱石さんは、圧倒的な知名度で高い人気を誇る。その作家人生は10年余りにすぎない。

思春期の読書好きな人が“あれ読んだ?”と語り合えるような、太宰治さんタイプではないかもしれないが、粋で新しいもの好きなおしゃれ心を感じる。漱石さんには、日本人の凝り性を持つモボ(モダンボーイ)の部分もありそうだ。

漱石さんは、東京の山手を舞台に、山手に住む新興エリートに向けて書いた新聞小説作家だった。国民的作家になったのは、戦後の国語教育の力が大きいという説がある。

日露戦争後、激変する社会を舞台に、都市の風俗や時事ニュースを巧みに盛り込みながら、男女が直面する問題を描き人気を博した。

 

1635

 

漱石さんは英国で、小説とはどういうものかを学んできた。西欧化された東京を描くことで、日本人に西欧を体験させ、近代のありようを示したという。
しかし、当時の文壇は冷ややかで、作家・正宗白鳥さんは“文章のうまい通俗作家”と漱石さんのことを評している。

昭和に入り、『こころ』が少数エリートである旧制高校生の必読の書となり、漱石さんを読むことが読書人の教養であり、新興中流層のステータスとなっていく。
『こころ』は1960年代に、高校国語教科書に収録され、高度成長期による“総中流時代”で、だれもが知る国民的作家になった。

漱石さんには“いくつもの顔”があったようだ。帝国大学を出て26歳で“英語教師”になり、松山、熊本、東京で教えた。“英文学者”でもあり、親友の正岡子規さんに教えを受けた“俳人”でもある。また、“美術評論家”、“装丁家”としても自ら『こころ』の装丁をした。

 

1636

 

漱石さんはスポーツ万能で、器械体操の名手でもあった。他にもボート、乗馬、水泳も達者のようだ。意外である。

市井人としての夏目金之助さん(本名)としては、相撲好きの江戸っ子で、幼い時に養子に出された苦労人なのだ。弟子の内田百閒さんに、質屋のしくみを教えたというエピソードもある。

一見、神経質で気むずかしいが、面倒見がよく多くの弟子たちに慕われたという。
読者をとても大切にして、小学生からの手紙にも律義に返事を書いた。
<だれでも読める小説を理想としていた>との信念が、こういうやさしさからも垣間見られる。

39歳になった漱石さんは、<自分で自分がどのくらいの事ができ、どのくらいな事に堪えるのか見当がつかない>と悩んでいたそうだ。

それでも<どのくらい自分が社会的分子となって、未来の青年の肉や血となって生存し得るかをためしてみたい>とも、学友への手紙に吐露している。

漱石さんは、命がけで小説を書いた。作品の数々が都市論や家族論、フェミニズム論など、あらゆる角度から読まれ続けている。

自身の作品が、100年後の今も読み継がれていることを知ったら、満49歳で亡くなられた漱石さんはいったいなにを思うことだろう。