日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

言葉は武器にも凶器にもなる

 

長年の営業職で、言葉一つが売上げに直結したり、顧客を怒らせた体験もある。
使い方により、言葉は意味や音感が微妙に変わる。

「愛する」の“愛”は“心”が真ん中に配されているが、「恋」の場合“心”が下になる。
<恋は下心で愛は真心>なのだろうか。おもしろい。

命令形になると<汝の隣人を愛せよ>で博愛の精神になるが、特定の相手を<執着して愛せよ>ではストーカーになりそうだ。

「あげくの果て」もよく使われる。<口論が続き、あげくの果てに・・・>などの近隣トラブルは後を絶たない。悪い状況に陥るのが常となる。

それでも「あげく」は、そのように使う言葉ではなく、日本古来の連句の形式から来た言葉なのだという。5・7・5の長句と7・7の短句を交互に並べる連句では、最初の句を発句、最後の句を挙句(あげく)というそうだ。「あげくの果て」とは、“いろいろあってその結果”という意味になるようだ。

 

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非難、叱責するときに使われる「ていたらく」。思わず政治家を連想してしまうが。
“てい(体)”は様子であり、“たらく”は“たり(~である)”の未然形に、“く”を付け名詞化した言葉なのだという。

“く”を付けて名詞化するのは「ク語法」と呼ばれる。<孔子曰く・・・>などの「いわく」は<いわくありげな表情>などと、複雑な事情や理由に対しても使われる。

「おそらく」、「願わく」などもク語法で、「思わく」は、“思惑”と漢字が当てられ、漢語のように使われることもあるとか。

1948年(昭和23年)、68歳の歌人川田順さんが、弟子と恋に落ち世に知られた。
その「老いらくの恋」が流行語になったという。「老いらく」も“老ゆ”のク語法で、“老ゆらく”が変化したものらしい。

高齢社会に突入した今、ぜひ復活させたい言葉かもしれない。

 

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昨今のニュースでよく耳にするのが、<セコいやつめ!>の「せこい」である。
徳島県では<この山道登るのせこいのー>といえば、体力的に苦しいという意味になるそうだ。精神的に辛いときや、経済的に苦しい状況を示すときにも「せこい」が使われる。

通常の「せこい」は、“ずるい、素早い”などの俗語として、大正末期の用語辞典に記されているという。以後、“けちくさい、みみっちい”と意味が広がった。

セコいお話はさておき、「底力」という言葉には爆発力が感じられて頼もしい。
その意味も、<ここぞというときに爆発する力のこと>だそうだ。

人は誰もが「底力」を持ち、ひとつのものに人生をかけ、歴史を刻むことで生まれるその力が、どんなものにも立ち向かえるエネルギー源になるとか。

とはいえ、私はまだ「底力」を感じた記憶がない。いまだにからだの奥深くに沈んだままなのだろうか。それでも、自分の「底力」を信じ、道を切り開いていくことを今一度、見つめ直すチャンスがあるかもしれない。“言葉”は考えようで、なぜか楽しくなってくる。