日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

馬の足がいてこその温故知新

 

下積み時代の森繁久弥さんは、“馬の足”を舞台で演じた経験があるらしい。馬上の役者にいい芝居をしてもらうためにと、馬の胴に香水を振りかけたという。

歌舞伎俳優の二代目尾上松緑さんが、ある週刊誌の読者にあてて“名馬を求む”と書き、馬の足を演じる役者を募集したことがあるとか。そのための役者が足りなくて困っていたようだ。

<経験者は大歓迎、未経験者は「身体強健にして演劇的カンのある人」を望む>、との募集要項だったとか。

頼りになる馬の足がいてこそ、馬上の名優もいい芝居ができる。やすやすと誰にでもつとまる仕事ではない。松緑さんの求人案内には、馬上から日のあたらぬ功労者に寄せた慎み深い敬意があふれている。

芝居の舞台に限らずどの世界にも、馬上の人を少しでも引き立てようと苦心する、若き森繁さんのような方がいることだろう。そして、馬上から、労多くして報われることの少ない陰の演技者を思いやる松緑さんも・・・。

 

1528

 

“戦前の日本人”がふつうにわかっていたものを“現代の日本人”は理解できなくなっている。当然といえば当然なのだろうが。

日本舞踊や義太夫などが、いい例なのか。これらは和物の中でもごくふつうなものであり、戦前は大体の人がわかっていたようだ。

時代を超越して、昔ながらの伝統をしっかり守っていくものと、時代の変化に応じ、現代の芸能として変質していくもの。たいがいの芸能は、このふたつを両極端として、その間で揺れ動いている。

昨年に急逝した踊りの名手、歌舞伎の十代目坂東三津五郎さんは、城郭を愛した人であり、『粋な城めぐり』という著書もある。
<自然と建造物の織りなすハーモニーの中に身を置くのが何よりの楽しみです>と語ったという。城は自然の地形を巧みに利用して造られている。

セリフと所作の約束事という伝統の“建造物”に、人の情けという永久に変わらない“自然”を調和させる。三津五郎さんには芝居が城郭であったのかも知れない。

 

1529

 

<百回踊ったら、百回同じ形にならなければいけません。一回一回バラツキのある人は、まだ下手だということになります>。三津五郎さんは、寸分も狂わぬことが、踊りの一つの極意だという。

先代の父親から、「体に楽をさせるな」と教わった。そして、鍛錬の成果が、隙のない所作をつくりあげた。2001年に十代目を継いだ。周囲は“21世紀の冒頭の年”の襲名を祝ったが、三津五郎さんは新しい千年の最初の年と語っていた。

伝統芸能の将来を熱心に、遠く見据える人であり、自分の預かった芸を未来に手渡すことを大切にしていた。

十八代目中村勘三郎さんとは自他ともに認める名コンビであった。
三津五郎さんは1956年1月生まれ、勘三郎さんは1955年5月の同級生である。
どちらも踊りの名手なのだが、スタイルは好対照だった。ダイナミックで感情豊かな勘三郎さんと端正で正確無比な三津五郎さん。

 

1530

 

ふたりが見事な対比を見せていた演目が『棒しばり』だったといわれる。

とある大家の主人とふたりの家来、太郎冠者と次郎冠者が登場人物である。
ふたりは主人の外出中、酒蔵に忍び込んでは盗み酒をしている。それを知っている主人はある日、次郎冠者を棒に縛りつけ、太郎冠者も後ろ手に縛りあげ、盗み酒をされないようにして出かけるのである。それでも酒が飲みたいふたり。何とか協力して酒にありつく・・・。

1916年の初演の際、太郎冠者を演じたのが七代目坂東三津五郎さん、次郎冠者が六代目尾上菊五郎さんであったという。七代目は十代目三津五郎さんの曾祖父であり、六代目菊五郎さんは勘三郎さんの祖父なのである。

天衣無縫な踊りで知られる舞踊の名手・六代目菊五郎さんと、軽妙洒脱な踊りの神様・七代目三津五郎さん。好対照なふたりが踊ったからこそ、この踊りは人気になった。

昭和から平成にかけて、勘三郎さんと三津五郎さんの名コンビを見ていた歌舞伎ファンは、その姿に戦前の名コンビを重ねて見ていたかもしれぬ。

“天衣無縫”と“軽妙洒脱”。この特徴は、勘三郎さんと三津五郎さんにも見事に当てはまっていたのである。まさに、時代を越えて受け継がれていく芸の奇跡。

今年は、『棒しばり』の初演から100年である。
きっとどこかの舞台で、勘三郎さんと三津五郎さんも踊ってくれるにちがいない。