日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

その人の名は 立川談志さん

 

立川談志さんが落語協会から脱退し、立川流を創立したのは、2人の弟子が真打ち昇進試験に落ちたことが発端だったという。

昨秋、学術や研究、芸術、スポーツなどの分野で活躍した人に贈られる紫綬褒章を受章された立川志の輔さんは、2011年に亡くなった師匠・立川談志さんへの謝辞を続けた。<遅い入門だったわたしに、多くのことを教えてくれました。なかでも『伝統を現代に』は大きな目標となり、多くの試行錯誤の原動力となりました>と。

また昨秋には、落語家・橘家円蔵さんが死去されている。ナンセンスなギャグを盛り込んだ爆笑落語で知られた人気落語家で、1965年に真打ちとなり、“5代目月の家円鏡”を名乗った。このころからラジオやテレビ番組の出演が急増。ニッポン放送「談志・円鏡歌謡合戦」の掛け合いがとても懐かしい。

同世代の立川談志さん、古今亭志ん朝さん、三遊亭円楽(5代目)さんと並び、月の家円鏡さんは「落語四天王」と呼ばれた。

 

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作詞家・横井弘さんは多くのヒット作を生み出している。変わったところでは漫才の獅子てんや・瀬戸わんやさんたちの『ぴよこちゃん』の補作もしている。

<「ピッピッピーヨコちゃん、あひるじゃガアガ」って、あれはひでえ。ひでえっていっちゃ失礼だ。“ものすごいや”というべきですかね>。その横井さんと対談した際に、立川談志さんの感想である。

通常、落語家の弟子になっても、師匠にお金を払うことは一切ないという。給金は出ない。入門料はなし、何席も落語を教えてもらっても無料で、稽古の後には食事をごちそうしてくれるし、貴重な芸談も聞かせてもらえる。時には仕事まで紹介してくれる。


師匠のところに何人弟子がいても、“無料”扱いは変わらないのだが、落語各派のうちで立川談志一門だけは家元制度を名乗り、弟子から上納金を取っていた。しかし、談志家元が亡くなった後、上納金制度は廃止になったとか。

 

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演芸・演劇評論家の矢野誠一さんが、立川談志さんと知りあったのは、まだ柳家小ゑんを名乗る二つ目の頃だった。小生意気な高座態度は(ほめたりけなしたりと)激しいものがあったが、同じ回顧趣味の持ち主で共感するところが多く、酒場、喫茶店、麻雀屋、銭湯、映画館、駒沢球場などなどで時を忘れて語りあったという。

昔の映画、流行歌、いぶし銀のようなプロ野球選手、あまり世に知られない一癖ある芸人に関しては一家言持っていた。談志さんが参議院議員となり、落語協会を脱会。立川流を設立し家元を名乗る頃は疎遠になったようだ。

それでも街なかでばったり出会ったことが何度かある。そんなときは自分の言いたいことだけ一方的にしゃべりまくり、「じゃァ」と手をふりながら足ばやに去って行く。

最後に会った2009年3月のパーティー会場では鬱(うつ)加減の拒食症とかで、落語を演っていて、気持がついていってないのに気づくことが多くなったとも言っていたそうだ。

最近誰と呑んでいる?と訊けば、すかさず石原慎太郎さんの名をあげ、<あいつ孤独なんだよ>と続けたそうだ。矢野さんには談志さんが自分の孤独を語っているようにきこえ、「威勢のよくない談志なんて、これっぽっちの魅力もない」と言ってやったら、素敵な笑顔をうかべたという。

 

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立川談志(7代目・自称5代目)さんは、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家であり落語立川流家元である。古典落語に広く通じ、現代と古典との結びつきや距離を意識しつつ、長年にわたり理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。

古典落語を現代的価値観や感性で表現する野心的努力は高く評価されたが、その荒唐無稽で破天荒ぶりから、好き嫌いが大きく分かれるといわれる。

また、落語のみならず講談や漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。
1966年に放送開始された『笑点』では1969年まで初代司会者を務める。
<『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ>と本人が語ったとおりに、『笑点』は談志さんが自ら企画して実現したものである。

談志さんは(初代メンバーで後に司会を務めた)5代目三遊亭円楽さんに、<寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか>と持ちかけたのが、番組開始の発端だという。そして、『笑点』の前身番組である『金曜夜席』が隔週金曜深夜に放送された。その段階で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。

笑点の司会でも、持ち前のブラックユーモアを生かし、機知に富んだ掛け合いを演じ、視聴者を大いに楽しませたのは言うまでもない。