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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

懐かしの昭和・それも30年代

 

東京・国鉄蒲田駅の操車場で、身元不明の他殺体が見つかった。
松本清張さんの『砂の器』だ。殺害されたのは誰か。

やがて被害者は、51歳の元巡査と判明した。作品には、<すでに50を過ぎた老人>と書かれていた。新聞の連載が始まったのは1960年(昭和35年)だった。今より平均寿命が15歳ほど短かった頃の小説なのである。

その時代、人は50代で晩年に差しかかるというのが、多くの日本人に共通する感覚だったようだ。

当時の科学技術庁の監修下で40年先の日本を予測した『21世紀への階段』によると、<現在20歳の青年は60歳になっても楽隠居になれない>との見通しがあった。
子どもの減少で人口の老化現象が進むとも予測され、人口増加策の必要性にはふれているが、半世紀後もなお手をこまぬいているとは書かれていない。

 

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<一生に一度のお買い物です。十二分にご吟味ください>というキャッチフレーズが“広告コピーの秀作集”にあった。その商品は? といえば、住宅でも乗用車でもない。
白黒テレビの広告なのである。

1955年(昭和30年)のもので、値段が12万5000円である。サラリーマンの初任給は9000円だったというから、「一生に一度」がさぞかし庶民の琴線に触れたことと思われる。
10年前に公開された映画『ALWAYS 三丁目の夕日』では、主人公一家のもとへ初めてテレビが来た日の場面があった。まさしく、当時の現実そのものである。

あの映画では、集団就職列車、路面電車、フラフープ、氷で冷やす冷蔵庫、駄菓子屋さんなどと、随所に懐かしい風景が登場する。

便利なモノと多少のお金を手に入れながら、繁栄の坂道を登りつづけたはずなのに、
あの時代が今よりも輝いて映るのはなぜだろう。

 

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私は、演歌という言葉が好きではない。昭和30年代には、“歌謡曲”や“流行歌”はたくさんあったが、演歌というジャンル分けはされていなかったように思える。

調べてみると、演歌が『現代用語の基礎知識』に初登場したのは、1970年(昭和45年)版からなのだそうだ。昭和30年代には演歌と呼ばれていなかったことに、なぜかホッとする。

昭和初期の大衆音楽の世界は、レコード各社の専属作家が活躍して、外来音楽に、端唄(はうた)や都々逸(どどいつ)など、日本的音楽要素を交配させては新しい音楽を生み出した。そしてそれらは、“流行歌”という名の大きなジャンルに包まれていたという。

ウィキペディアによると、<NHKがそれまで「流行歌(はやり歌)と呼ばれていた大衆歌曲をラジオ放送する際、「はやるかはやらないかわからない歌を“はやり歌”とするのは適当でない」>として“歌謡曲”という呼び名が登場することになる。

 

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戦後の高度成長で生活様式や価値観も急変。音楽でもロックやフォークなどの登場で、地方への郷愁を歌う曲や夜の巷で歌われた“流し歌”などが取り残されていく。発展を支えた人々はその変化に戸惑い、一昔前に懐かしさを覚え、流行歌の一部が“演歌”の名でジャンル化していった。

そのジャンル形成に大きな役割を果たしたのは作家の五木寛之さんだともいわれている。五木さんの小説『艶歌』(1966年)に登場する“艶歌の竜”は、実在の音楽プロデューサー・馬渕玄三さんがモデルだ。読み応えのある本で、テレビドラマ化され大ヒットした。また、ドラマに使われた演歌曲も大ヒットした。

五木寛之さんは、哀調を帯び、貧しさや不幸を強調した流行歌の塊を『艶歌』と再定義して、そこに日本人のアイデンティティーがあると肯定してみせた>と語るのは、大衆音楽史に詳しい大阪大学・輪島裕介准教授である。

作品では<庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う>のが艶歌だとし、<艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しない>と登場人物に語らせた。

五木さんの理念は70年代以降、レコード会社やメディアにより「日本の心を歌う伝統音楽」に変化し、「演歌」と表記されて広がった。歌謡曲のなごりである演歌には、昭和30年代のエッセンスをたっぷり感じるのも当然なのであろう。

 

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