日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

引き算より足し算の宇宙缶詰

 

清酒大手の月桂冠の商品に、ノンアルコール日本酒の『月桂冠フリー』がある。
その開発には中断期間を含めて約12年を要したそうだ。

当初、麹(こうじ)と酒かすを原料に使った上で、アルコール分を抜く「引き算」をしたが、甘酒に近い味にしかならない。そこで、食物繊維や水あめなどを組み合わせ、本物に近づける「足し算」に切り替えると7割の人が日本酒らしい味だと評価したという。

思えば、企業などの人事評価も減点主義の引き算になりがちであるが、最近は見直しの動きがみられるようだ。

 

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経営再建中のシャープでは、「加点主義」の人事制度を管理職から順次取り入れていく。新技術の研究開発などで高い目標を設定させ、達成すればボーナスに反映させるが、失敗して会社が損失を被ってもマイナス評価はしないという。

そこには、<エラーを恐れず打球に飛びつく社員を育て、上司の指示を待つだけの“大企業病”を払拭させる>狙いがあるとか。

すでに出来上がったものから何かを削ることより、ゼロから積み上げる方が、創造的な精神を育むということにもなる。減点につながるミスの防御もたしかに大事であるが、関門突破の後は、減点を恐れず新しいことに挑戦する「足し算」の発想が大事である。

 

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昨秋に亡くなられた赤瀬川原平さんは(現代の)不思議な存在であった。数ある著書の略歴には<全貌を把握するのはむずかしい。あえて言えば職業は“赤瀬川原平”>などと書いてある。

赤瀬川さんは画家であり、半世紀前の前衛芸術家でもあった。そして、漫画、イラスト、レタリングの名手、宮武外骨研究家、芥川賞作家、路上観察学会長老、元祖“老人力”、中古カメラ界の重鎮、ライカ同盟構成員、日本美術応援団初代団員、優柔不断術の使い手と、ものすごい。

しかし、ただ“多才”や“マルチ人間”などというものとは違う。赤瀬川さんには、手がけたこと、関わったことのすべてを貫く“全体性”があった。どの一つをとっても、赤瀬川さんそのものなのだ。

よく知られているのは“老人力”という言葉かもしれない。負のイメージの強い言葉に「力」をくっつけて、一気に正の側へ反転させてしまった。もとは路上観察の仲間が赤瀬川さんの内に発見した力であった。それを本人がおもしろがり、本に書き世に広めた。

 

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<人々が避けてきたものの中にひそむ未知の力を、取り出してみせた>。
赤瀬川さんがそう言うと、そこに何とも言えぬ可笑しさがあり、世の中を少し明るく楽にしてくれた。反転させる。ひっくり返す。世の大勢や常識とは逆方向に想像力を働かせてみる。

それは遠い前衛時代からの赤瀬川さんの十八番(おはこ)であり、彼を含む5、60年代美術前衛の主要な表現手法であった。赤瀬川さんは、日常的な常識を反転させることばかりを考えていたようだ。

当時の最も鮮烈な作品に『宇宙の罐詰』(1964年)があった。
日常にある<ラジオ、扇風機、椅子、カーペットなどを次々に梱包し、機能を遮断することで、オブジェとしての際立った存在感を表現していた>赤瀬川さんは、最後に宇宙を梱包するしかないと考えた。

かに缶を買ってきて、<缶切りで蓋をあけ、中身を平らげ、中を洗う。そしてラベルを剥がし、缶の内側にきれいに貼り直す。蓋を戻し、ハンダづけして終了>。
これは不思議、缶の内と外が反転してしまったのだ。

われわれのいる外の世界は缶の内部ということになり、缶の外側の“無限の宇宙”はハンダづけした物体の内側に閉じこめられてしまったのだ。

赤瀬川さんの世界は単独ではなく、60年代の多様な人々との共振や乱反射から生まれていったともいう。世に知られる(模型千円札をめぐる)千円札裁判も、赤瀬川さんが1963年に<印刷所で千円札を印刷して芸術作品を作った>ことにともない行われた裁判であった。

 

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もの書きの仕事でも、常に作動していたのは逆方向への想像力であった。
赤瀬川さんは、<書くという行為が本来的にもってしまう“うそ臭さ”>を嗅ぎわける名人であった。

“断定”や“言い切り”の内にある、書き手の快感や自己誇示とは無縁に、
<自分の言おうとすることに探りを入れ>、少し進み、言いよどみ、身をずらし、反転し、脇から眺める。その過程を逐一書くことで、肝心なことを言ってしまっている。

それは一面、理屈をこねることでもあるが、そのこね方が一級品の芸になっていた。
だれも真似(まね)ができない、真似たらそれこそ“うそ臭い”という意味で、独創的な文章家であった。

赤瀬川さんの全仕事を積み上げれば大変な高さになるはず。しかし、決して自らは高所に立たず、人を支配せず、<どこまでも好奇心にみちた一人の探求者>として生きていた。人に愛され、緩やかな口調と柔らかな声が、今でも懐かしがられる。