日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

98%守り2%攻めての継続

 

歌舞伎の十八代目中村勘三郎さんは、2005年3月3日、『鬼一法眼三略巻』「一條大蔵譚」の一條大蔵卿、『近江源氏先陣館』の佐々木盛綱ほかで襲名を披露した。以後5月まで3ヵ月間にわたる襲名興行は十二代目市川團十郎さん以来の事だという。

「天衣紛―」で片岡直次郎を当たり役にした六代目尾上菊五郎さんが、母方の祖父にあたり、祖父と父(十七代目勘三郎さん)から受け継ぐ名優の血を引く“歌舞伎の子”といえる。

平成中村座」を老若の観客で満員にしたかと思えば、野田秀樹氏を脚本・演出に迎え歌舞伎座をわかせる。勘三郎さんは、古典の地道な守り手であり、現代的な攻めの人でもある。

<歌舞伎は98%が伝統で97%になると歌舞伎ではなくなる>と言われる。
役者が様々に模索しているのも、「先祖たちがつくった98%の残り、2%の中なのです」、と。98%を守ってよし、2%を攻めてよしの十八代目は、当時49歳の男盛りであった。

 

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時世時節は(2%かどうかはわからぬが)、徐々に切り替わっていくようだ。それは数字の表記にも表れる。山口瞳さんの直木賞受賞作『江分利満(えぶりまん)氏の優雅な生活』に、カフス・ボタンの値段を見た主人公が諸物価の高騰にため息を吐く場面があった。

「ちょっとした奴で千2百円はする」。千二百円でも、1200円でもない。平凡なサラリーマンの日常が淡い筆づかいで描かれている。東京オリンピックの前年、消費が豊かさと同義語になりつつあった1963年の作品である。

作家は「千2百円」という異質な表記を用いることで、時代の変わり目にしっくりなじむことのできない戦中派世代の違和感を表現したかったのであろう。
差し向かいは4畳半よりも四畳半のほうが風情や情緒でまさるが、忙しい時代の要請ではしかたがない。

「千2百円」式の変則的な表記を用いて、小説は平凡な日常の哀歓を感性ゆたかに伝えている。風情も情緒も、“書き手の腕次第”のようだ。。

 

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数字もさることながら、言葉は使い方により音感も意味も微妙に変わる。
例えば、漢字の「愛」は真ん中に“心”があり、「恋」は下に“心”がある。
<愛は真心、恋は下心>というが、真心でも命令形の「愛せよ」は、場合により困る。特定の相手に執着して「愛せよ」と言えば、今はストーカーにもなりかねない。

言葉は、使い方次第で凶器にもなる。「分をわきまえる」はふつうに考えるといい言葉だ。自分の身の程や分際を承知して、出過ぎたまねをしないこと。人々が、欲望と欲望をぶつけ合うとギスギスしてしまう。

それぞれおのれの分を知り行動することは、とても大切なこと。ただし、命令形で「分をわきまえろ」というと様子が違ってしまう。

江戸時代は、「分」の時代だった。身分の差が歴然として、わきまえずに行動すると「こしゃくな、貴様の分際で、頭が高い!」とやられる。
何か新しいことをやるにしても、身分や制度の壁が立ちふさがり、進取の精神がつぶされがちだった。

 

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「この際」という言葉は今でも使うが、大正12年の関東大震災の直後に流行った言葉だという。大震災による非常時、「何しろこの際の事ですから……」などと。こういう特別な状況だから、みんなで足並みそろえて行動しようという空気が醸し出された。

つらい時、「この際、頑張ろう」とひとり一人が踏ん張り、「この際、どうにでもなれ!」と、いい意味で開き直るのはよいが、非常時での「この際」は、周りに同調行動を強いる。

この非常時を示す「この際」と「分をわきまえろ」の合体したのが、戦争中に大手を振った「欲しがりません勝つまでは」であろう。

ただ、「この際」には明るい用法もある。同窓会などで友遠方より来たりて、「この際、朝まで飲み明かそう」。これはいい。言葉は使い方次第であるようだ。

 

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予想が当たり、やっぱり思った通り、というときに使う「案の定」。
改めて考えると、なぜこのように書くのかちょっと不思議である。

「案」とは、まだ確定はしていない計画で、“予想している”ことを表す。
これから検討するためのもとになる考えを提供するのは「案を出す」といい、前もって思っていたことと違うのは「案に相違する」である。

「定」は、定まったこと。そう決まっているということだ。「定石」「必定」など、「じょう」と読む熟語は幾つかあるが、単独での「じょう」と使う例は少ない。

予想が当たったときの言い方としては、「果たして」や「やはり」がある。
「案の定」はどちらかというと、悪い方に当たったときに使うことが多いようだ。
「案の定、競馬であの馬が一番だった」というと、大金を手にしたという喜びの声よりも、その馬の馬券を買おうと思ったが、途中で変更したので“儲けそこなった”と残念がる響きが感じられる。この言葉につきまとう語感がなかなかおもしろい。

今ならさしずめ、<(相次ぐ)内閣や野党代表議員たちの政治献金問題に対して「案の定!」>がピタリと当て嵌まるようだが。