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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

嵐と共に去った勝新太郎さん

 

映画『嵐を呼ぶ男』という出世作で、嵐を呼び映画界を席巻したのが石原裕次郎さんなら、揺るぎない個性を映画界に刻み、嵐と共に去ったのが名優・勝新太郎さんである。
ふたりはお互いを兄弟と呼び、心を許しあう無二の親友である。裕次郎さんの葬儀では友人代表として、勝さんが弔辞を読んだ。

勝さんのエピソードは数知れず、ご本人自身が語る体験談もテレビでたくさん拝見している。しかし、(鬼澤慶一さん著『涙の取材手帳』に記された)この話はまったく知らなかった。

勝さんがいつものように、六本木にあるなじみの店で飲んでいるとき、一人の男と出会った。「裕次郎以来、最高の男を見た気分だ」と勝さんは絶賛した。
初めて見る顔だが、勝さんはその男が一目で気に入ってしまった。いわば一目惚れである。

「おめえさん、いい顔してるな。おめえさんの目は本物の目だ。いい、凄くいい」
勝さんは男に話しかけた。
俳優としてデビューさせようと話を持ちかけるも、その男の素性を知って諦めざるを得なかった。

 

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「ところで名前は何て言うんだ?」
稲葉浩志です」

顔だけで人間の善し悪しを判断していく。これも勝さんならではの特技である。
その時、勝さんは<彼がB'zのボーカル>であることは無論、何をしているかも知らなかった。
以来、勝さんと稲葉さんの二人は生ビールにテキーラを垂らして、「マリファナ・ドリンク」と名づけては乾杯していた。
そしてその後、勝さんは時間の許す限り自ら購入したチケットで、B'zのライブに訪れていた。

ある横浜でのライブに感動した勝さんはいきなりステージに上がり、青いテンガロンハットを稲葉さんの頭に乗せた。それは兄の若山富三郎さんの形見の帽子だった。
現在、このテンガロンハットは、稲葉さんのプライベートスタジオ「志庵」に大事に飾られているという。

 

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1967年に勝プロダクションを設立した勝さんは、自ら映画製作に乗り出す。
大手五社による五社協定崩壊の中、三船敏郎さん、石原裕次郎さん、中村錦之助(萬屋錦之介)さんなどの映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた。

勝プロは、すでに経営の危うい大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、三隅研次さん、森一生さん、増村保造さんなど大映出身の監督たちと、時代劇の伝統を絶やさない映画制作を続け、五社英雄さん、斎藤耕一さんといった、当時の若手監督たちとも製作で手を組んだ。

また、一方ではマンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出した。
特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、クローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、日本映画の映画文法を破り、先進的な手法での作品と評された。

1974年から1979年にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)するなど、テレビ制作を続けたが<自分自身を苦しめる地獄道でもあった・・>などの、勝さん自身による苦しい独白もある。

ヒットラーみたいな監督がいるわけでしょ。次の場面どう出るのかと思って待ってるんだけども。その時にこのヒットラーの頭の中に次が浮かんでこない時のこの孤独さね。
皆が口を開けて待っててくれるんだよ、俺を。俺は「見つけてるんだ」って顔をしていながら実はなにも見つかっていない>。

同じことは二度としないというこだわりのため、自分自身を追い詰めていく。回が重なるにつけアイデアが枯渇して、制作に一年かけたものもあった。予算は当時破格の一本2千万円。それでも赤字の連続であった。

 

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<偶然完全。完全なんてものは偶然にしか生まれない。テクニックで生まれた完全なんてないよ、どこかで作られたもの。ヒットしたもののイミテーションによって作られ、売り出されたものであってはならない。そんなものは商品価値にならない。歴史に名をとどめる価値にはならない>。勝さんの地獄道はまだまだ続く。

傍からは軌道に乗っている活動に見えたが、この頃からプライベートでのトラブルが多くなり、1978年にはアヘンの不法所持で書類送検される。
1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されるが、監督の黒澤明さんと衝突し降板。
他愛のないことであった。映画撮影中に勝さんは自分のスタッフにビデオカメラで撮影録画することを指示した。そのことが黒澤監督の逆鱗に触れた。

黒澤明監督が『影武者』の絵コンテを画集にしたものがわが家にある。そこに描かれている主人公はどう見ても(のちの代役の)仲代達也さんではなく、完全に勝さんのイメージで描かれている。私も勝さんの『影武者』を観るのが楽しみだったので、いまだに残念である。勝さん自身も「世界の黒澤となら次なる道を見い出せるはず。日本中探してもいない。俺を自由にいじくってくれる人は、今 初めてなんだよ」と、撮影前からだれよりも楽しみにしていたのに。

1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』でも、完全主義の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになってしまった。
これらの影響で勝プロダクションは膨大な赤字を抱えて、1981年に12億円の負債を残し倒産した。

 

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1989年に長年の沈黙のあと、自らの製作、監督、脚本、主演で『座頭市』を完成させた。しかし、撮影中に死亡事故が起きたりと問題が出た。
結局、これが勝さん製作の最後の映画となり、出演作品としては1990年、黒木和雄監督の『浪人街』が最後ということである。
以後の活躍の場は、舞台となり演出、主演を務める。

1990年1月、アメリカ合衆国ハワイ州のホノルル空港で、下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕。
帰国した翌年に日本でも麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑で逮捕され、懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の有罪判決を受ける。
裁判では「傍聴者」を「観客」と呼び、客を楽しませる台本まで考えてから出廷したといわれている。<映画界のスターからワイドショーの主役へ>と揶揄(やゆ)されることもあった。

最後の舞台は大阪新歌舞伎座で、中村玉緒さんと夫婦役を演じた『夫婦善哉』。
「俺から遊びを取ったら何も残らない」と豪語し、豪遊は当たり前だった。
勝さんは若い頃から大酒飲みで座持ちは抜群。得意の三味線や歌、愉快な話を披露し、芸者達をも楽しませた。

借金取りに追われる生活であったにも関わらず、借金で豪遊し、高級車で高級な服とスター然とした豪勢な生活を続けたとか。取り巻きが飲んでいる間に徐々に増え、最初10人ほどだったのが100人近くに増えることは珍しくなかったという。このことは、ご本人もテレビで言っていた。
晩年にはデニス・ホッパーさんとの親交もあり、日本の映画祭などで同席することもあった。同じ「破滅型の俳優」として、ホッパーさんは非常に親近感を持っていたらしい。“類は友を呼ぶ”であろうか。

座頭市としての革命を起こした男の数奇なるラストデイズ。
晩年自宅を失い、都内でマンションを借りていた。
国内外から数々の出演依頼が持ち込まれていた。しかし、ほとんどが幻で終わった

35年連れ添った妻の前でも「勝新太郎」であり続けた。
1億借金しようが5億借金しようが同じだろう。なにも残っていない。
病室にあったのは座頭市の仕込み杖が何本か。あの杖は離さなかった。
自分でなければこの世に残せなかったもの。自分の生きた証。

優しくて繊細で三味線が上手でお坊ちゃま。「勝新太郎」という商売は大変。
テレビドラマの再放送をいつも見ている。こんな芝居でいいのか。
自分がもっとおもしろいものを作りたい。

1996年7月に下咽頭癌を発病。手術はせず、抗癌剤放射線の治療を行なった。
勝さんが入院する時、稲葉浩志さんは初めてのソロアルバム『マグマ』を出した。
「お届けします。早く元気な顔を見せて下さい」
アルバムにはこんなメッセージが付いていた。

勝さんは感激して、亡くなるまで何度もそのアルバムを繰り返し聴いていた。

1997年6月21日、入院先の千葉県柏市国立がんセンター東病院にて下咽頭癌で死去。65歳没。この世という舞台を去った
勝さんの臨終間際の前には、ちょうど巨大な台風が接近しており、<台風一過と共に亡くなった>という。
「一度だけでもいい、死ぬまでにもう一度稲葉さんに会わせてあげたかった」
勝さんが死んだ後、中村玉緒さんが言ったという。


参考:Wikipedia

 

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