日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

素敵なヨコハマ物語に感謝を

 

昨年末、私は『ハマのメリーさんをご存知か』という記事を書いた。そして、その翌日に『ヨコハマメリー』という映画を観た。ちょうど丸1ヶ月前のことである。

自分より若い世代の中村高寛(たかゆき)監督が、あのメリーさんをどう描いているのか、たいへん興味があった。ドキュメンタリーにはまちがいないであろうが、いったいどのような構成になるのか、私には見当がつかなかった。

中村監督は1975年の生まれで、横浜出身。松竹大船撮影所でキャリアを積み、中国に渡りドキュメンタリーを学んだ。中村監督がメリーさんを知ったのは中学生のとき。学校でも話題になっていたという。映画を撮ろうと決めたのは、1995年にメリーさんが姿を消したことがきっかけとなった。

映画『ヨコハマメリー』は、“白塗りの娼婦メリーさん”を知る人々の証言で構成された。
ドキュメンタリー的手法の映画。2006年に公開され、大ヒットした中村高寛監督のデビュー作品だ。メリーさんが動画で登場するのはたった2つのシーンだけ。それでも、全編にメリーさんがいてくれるのである。

 

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そして、メリーさんをやさしく見守る人もいた。
シャンソン歌手・永登元次郎(ながとがんじろう)さんとメリーさんの出会いは、関内ホールで(自身の)リサイタルのポスターをメリーさんがじっと見ていたので、「ぜひ観に来てください」と招待券を渡したのがきっかけだ。

当日のステージでは<メリーさん、来てくれたかなあ>と客席に目をやりながら歌った。
そして、ファンからの花束贈呈のとき、その列の中にメリーさんがいた。メリーさんが元次郎さんにプレゼントを手渡すと、客席から大きな拍手が起こった。

元次郎さんには男娼だったという過去がある。そのため、自分とメリーさんを重ね合わせ、心づけの小遣いをあげるなど気にかけていた。

<メリーさんにお金をあげたいと思ってもハダカでは受け取ってもらえなかった。封筒に入れて『お花代』として、これできれいなお花でも買ってくださいと言って渡すと初めて受け取ってくれた>と元次郎さんは言う。

また、「滞在する部屋が欲しい」というメリーさんのために元次郎さんは奔走したが、住民票がないメリーさんのための部屋を見つけるのは難しかった。そのとき、元次郎さんの身体には癌が蝕み始めていたのである。

 

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70歳を過ぎたメリーさんは、福富町のGMビルに住みつき、エレベーターガールとしてチップをもらい生活していた。それは、エレベータが満員になりそうなとき、外から乗員を押し込む仕事だったようだ。メリーさんはプライドが高く、お金を恵まれることには抵抗したが、自分がしたことに対する報酬は受け取った。
メリーさんはこのビルの廊下の椅子の上で眠った。

写真家の森日出夫さんは、1947年に横浜で生まれた。
長年撮り続けた横浜の“港・街・人”を「森の観測」と名づけ、写真集や個展などで作品を多数発表している。森さんは1993年にメリーさんを撮り始め、1995年に写真集『PASS ハマのメリーさん』を刊行した。

映画『ヨコハマメリー』で使われたメリーさんの写真は、すべて森さんが提供したものばかりだとか。どの写真にもメリーさんが活き活きと描かれ、動画を超える効果がある。
森さんによると、実際のメリーさんは150cmに満たないほどの背丈で、小柄な人だったという。また、決して施しは受けず、<礼節を重んじるきちんとした人>だったと。

 

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“ハマを代表するエンターテイナー”清水節子さんは、(芸能界に入る前)福富町でスナックをやっていた時にメリーさんと出会った。"白塗りの人(メリーさん)"を見て「自分を演出している」、「おもしろい」と興味を持った

そして、清水さんはタクシー運転手や周囲の人に調査を敢行した。メリーさんを調査するうちに「映画を撮りたい」と思うようになった。メリーさん行きつけの場所だった森永ラブに通いつめ、映画への出演交渉を行った。
「(メリーさんは)最初はぜんぜん話してくれなかった」が、諦めずに何度も通ううちに「1時間だけなら・・・」と話してくれるようになった。

どこか自分を演じているようなメリーさんは、家具売り場では"まるで大邸宅にいるように"ソファーに深々と座り、肘掛けに手を置いて堂々としていたそうだ。

映画では「真実を描きたかった」と語る清水さんであったが、プロデューサーが資金を流用するなどのトラブルが発生したため、残念ながら映画がお蔵入りになってしまった。
もし、清水さんが製作したメリーさんの映画が完成していたら、リアルな動画がメインで中村監督の『ヨコハマメリー』とは別な切り口になっていたはず。撮りためたフィルムも残念ながら、行方不明の状態だと(映画『ヨコハマメリー』内の)テロップで表示されていた。

 

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メリーさんは1960年頃に横浜へ来て以来、"舞台化粧のような白塗りと全身白いドレス姿"で74歳まで街頭に立ち続けた"伝説の娼婦"である。
1950年代半ば、30代だったメリーさんは朝鮮戦争景気の横須賀へ。<レースのドレス、白いパラソルに扇、羽飾りのついた帽子>という姿でどぶ板通りに立った。その特異な姿から、ニックネームは「皇后陛下」。メリーさんには服装だけではなく、ほかの人にはない"品格とオーラ"があったそうだ。ちなみに当時はまだ薄化粧だったらしい。

メリーさんは将校以上の人しか相手にしなかった。それは、危険を伴う街娼でありながら誰の庇護(ひご)も受けない一匹狼だったため、その方が安全だという計算があったのかもしれない。メリーさんが横浜に着いたときは40歳になろうとしていた。
だんだん化粧品が買えなくなったメリーさんを見かねて、伊勢佐木町の化粧品店「柳屋」の女将さんが舞台用の安いおしろいを教えてあげた。

そして、1995年に横浜から姿を消した。
長年、メリーさんにロッカーを無料で貸していたクリーニング店の奥さんが、体調を気遣い新幹線の切符を買い与え、故郷へと戻してあげたのだった。メリーさんは故郷へ戻り、老人ホームで好きな絵を描いて静かに暮らした。

映画『ヨコハマメリー』のラストシーンでは、死期の迫る元次郎さんが病院を出て、田園風景の中を走る電車に揺られているところが映し出される。
そして、画面が古い建物に切り替わる。ステージ衣装姿の元次郎さんが歌い始める。
『マイウェイ』、『哀しみのソレアード』。映画の冒頭でも、自身で経営するシャンソンの店にて元次郎さんは歌っていた。

老人たちが元次郎さんの歌を聴いていた。その姿がズームアップして、ひとりの小柄な女性をカメラはとらえた。そこに映る姿は素顔のメリーさんである。
大きくうなずくように、元次郎さんの歌の世界に入り浸っている。紅をさした唇が微笑み、とても素敵なお顔である。メリーさんがいる老人ホームでの、元次郎さんの小さなコンサートは圧巻である。

歌い終わった元次郎さんとメリーさんは、老人ホームの廊下に立ち、照れくさそうに言葉を交わした。そして、元次郎さんが手を差し出し、ふたりは仲良く手をつないで奥へと歩き、その姿がだんだんと小さくなっていく。

永登元次郎さんは映画の上映を待たずして、2004年に亡くなった。享年66歳である。
メリーさんも、2005年1月17日、84歳の生涯を閉じたという。