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日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

文章を使わずに文書を作成する「ものぐさ術」を会得するには

創作・作家

 

小椋佳さんの作曲法はすごい。自分の詩を書き留めたノートを読みながら
自然に曲ができてしまう。ただ、それだけ。楽器はまったく使わない。

ある日、吉田拓郎さんは、松本隆さんから“新作の歌詞”を受け取って、本人の前で手元のギターをとり、コードを弾きならしながらハミングするように口ずさんだ。
それで出来上がった。

ほんの数分であった。名曲『外は白い雪の夜』が誕生した。
<拓郎は天才だ!>。松本隆さんに、そう言わしめた瞬間であった。

 

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先々月亡くなられた、作家・作詞家である山口洋子さんは、女優業を経て東京・銀座でクラブ「姫」を開店したという経歴がある。そのときの体験が、のちの作家活動に大きな影響を与えた。

作詞家として数多いヒット曲の中で、その代表ともいえる『よこはま・たそがれ』の歌詞は、とても興味深い。

<“よこはま”、“たそがれ”、“ホテルの小部屋”や“木枯し”、“想い出”、“グレーのコート”・・・>などの、「言葉の断片」の羅列のみで素晴らしい歌詞が出来上がってしまうのである。

サビの部分は<あの人は 行って行ってしまった>の繰り返しで、結末の言葉などはかんたんな短い言葉だけである。

上述の小椋佳さん、吉田拓郎さん、そして山口洋子さんのように、こうして名曲の歌詞や曲を単純明快に創れてしまうことに、私は憧れてしまうのである。

 

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話は飛ぶが、私は<少しでも長い文章>を書くことに苦手意識がある。<インターネット創生期の産物>であったメーリングリスト(ML)の書き込みを18年していたが、そこでは返信(レス)モードの短文が中心のため、短文に慣れ切ってしまっていた。

MLをブログに喩(たと)えてみれば、<ブログの本文>のようなメールをだれかが発信すると、そこにレスがどんどんつく。<ブログに対するコメント>のようなものを、メールソフトでやりとりする特定多数での“オープンなメール”なのである。メンバー同士の親密度は強くなりやすいため、“ツッコミとボケ”や“チャチャ”など、いろんなメールが飛び交い、オフ会のときは大盛り上がりである。私もネットを通じた多くの人と、どんちゃん騒ぎをさんざんしている。

ある日、<長文が書けない>というトラウマから逃れようと、<レスモードではない自分発信の文章>を書くための訓練として、エッセイを100編まで続けてみるか、と思い立った。
「その下書き的に・・」と、始めたのがブログなのである。
週一のペースで書き続けて2年間。エントリ数が100になってからは、記事を書くことのコンセプトがブレっ放しになった。

 

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100記事を過ぎてから写真を載せるようなった。偶然にだったが、写真のスペースのため記事の文章は大幅に削減できる。写真を4分割くらいに貼り分ければ、その上下を含めて5列に写真の説明分だけですむ。各列は2行もあれば書けるので文章はたったの10行ですむ。

なんといっても、「100編の記事だけでいい」というつもりで始めたので、そのあとのネタなどありもしない。そのときは、読者の方やスターマークもそれほどないからお気楽なものであった。ただ、自分の知り合いやMLのお仲間が読んでいてくれたので、止めようという気はなかった。

それがいつのまにかコメントをいただいたりした。アップした写真のことだけならまだしも、文章の内容でコメントが入った。自分では、写真の短い説明だけで、文章を書いているという意識はまったくなかった。だからよけいにおどろいた。
そのことがきっかけで、写真と本文の主従関係が替わり始めたのである。

今は写真が(舞台などの)暗転代わりになり、記事の量が初期の頃より格段に増えている。長ければいいというものでもないので、もっとシンプルにできないかとは常々考えている。

私が意図的に、<本文とまったく関係ない写真を使う>ことには理由(わけ)がある。
はてなダイアリー」で書き始めたとき、スターマークを付けていただいたご縁で、拝見させていただいたブログでは、<のどかな風景の中、子どもたちの笑顔を写した写真>が載っていた。そして文面は、というと、かなりシビアな「政治批判」が綴られていたのである。このアンバランスな組合せがおもしろくてならなかった。

黒澤明さんの作品『生きる』で、<「余命あとわずか」と知らされて、街中をあてもなく歩きながら落ち込む主人公の映像>に『かっこうワルツ』という明るい楽曲のBGMが流れていたような記憶がある。なぜかそのシーンをオーバーラップしてしまった。

 

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今 私が、模索しているのは、<余分なものを介在させない簡素化>で、「文書を作成できないものか」、ということである。こうして記事を書くのも、文章を書いているという意識があれば“ジャマ”になるような気がしてならない。ポッと頭に浮かんだものを、<手を加えずに表現したい>みたいな気持ちである。

何度か書いているが、思いついた言葉をそのままに、ボイスレコーダへ録音して集めている。そのときは、かつての名番組『プロジェクトX』の語りのように、簡略化した言葉を淡々とするように心がける。(ただし、酔って録音したものは判別不能が多い)。

ボイスレコーダにある言葉や情報の断片を、“文字起こし”して、アイデアプロセッサに格納しておく。それらの断片が数年分たまっている。そして、その情報の断片を組み合わせ、つなげてみる。この記事の中の断片も、「今」ではなく1年以上前のものが、かなりの割合を占めているはずである。

また、気になる資料や記事など、既存の文章もバラバラに分解して、アイデアプロセッサに保存しておく。なにかの折りには、必要なところをチョイスして組み合わせる。
その作業により、今は文章を書かずに組み合わせつなげているだけで、作文の部分を大幅に省くことができるようになりつつある。

“ものぐさ”すぎて恐縮なのであるが、これが<少しでも長い作文>から逃げるための“苦肉の方策”なのである。