日日平安part2

日常を思うままに語り、見たままに写真を撮ったりしています。

若者たちが石原慎太郎さんに憧れた時代のあったことをご存知であろうか

 

今、81歳の石原慎太郎さんは、若い頃に爺さんキラーで、文豪などの年輩者にとてもかわいがられた。当時、若者の流行にまでなった太陽族の石原さんが、実は年上の方たちとのお付き合いがよくて、文壇の講演旅行、ゴルフ、文士劇にも積極的に参加していた。それは、学ぶところが多いからである、とのこと。

大正生まれの三島由紀夫さんが、若手のホープと言われていた時代である。さしずめ石原さんは、礼儀をわきまえたヤンチャ坊主として、文豪たちの目に映っていたのではあるまいか。

文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞したのが、1956年(昭和31年)で24歳のときである。石原さんの文学の資質を、「生と死が対置している」と評したのは、三島由紀夫さんと江藤淳さんである。そのことを本人は気づいていなかったようで、“無意識が過剰”と江藤さんに指摘されたそうである。

 

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石原さんが語る有名作家たちの話はとてもおもしろい。川端康成さんについては、妖怪変化のように見えたという眼光から始まり、女性をジロジロ眺める、とのことへと話が進んでいく。誰に限らず、女性を眺めるときの目つきや目の輝きが尋常ではないという。

女性への耽美などというより、直截露骨な好奇心のせいで、あの目が突然さらに異様な輝きをおびて、食い入るようにまじまじと見つめるのだそうだ。

川端さんは、晩年ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』を読んで強い衝撃を受け、『眠れる美女』という妖しげな作品をものにした。ちなみに、私はこの作品に興味を持っていた。透明感のある文章で描かれる妖美な世界であるが、それまでの川端さんのイメージとはちがった。

谷崎潤一郎さんの描いたマゾヒスティックな世界は、ある意味ノーマルともいえた。川端さんの晩年の嗜好はもっと病んでいて、氏自身がそれをもてあまし呆気ない自殺に帰結してしまったような気がするとも言っていた。

そして、川端康成という文人は静かに端然としていながらいかにも異形で、一癖二癖もありたいと願う物書きたちに、一目二目置かれていたようだ。

 

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小林秀雄さんについて、三島由紀夫さんは「日本における批評の文章を樹立した」と評価している。また、「独創的なスタイル(文体)を作つた作家」として、森鴎外さん、堀辰雄さんと共に小林秀雄さんを挙げている。

小林さんは単なる批評家ではなく、芸術家とみられている。小林さんから大きな影響を受けた批評家や知識人は枚挙に暇がないほどである。そして、酒癖は悪く、「素面の時は秀才の如く。酔えば無頼漢の如し」と言われたそうである。深酔いすると周囲の人にからみ始め、相手が泣き出すか怒り出すまでやめなかったという。日本語の通じないアメリカ兵まで泣かせたという伝説があるくらいである。

その小林秀雄さんに、石原さんは人を救うために説教したことがあるそうだ。ある宴席の人前で水上勉さんをこきおろし、有名な小林さんのしごきが始まった。取り巻き以外みんな退席したら、石原さんだけが残った。そして、引っ込みがつかず酔った勢いでずかずかと小林さんの前であぐらをかいて仲裁した。訳の分からぬ台詞のやりとりのあと、小林さんと取り巻きたちが退席した。

当の石原さんは、たいへんなことをやらかしたとびくびくしていたら、その後小林さんに、「君」から「お前」と呼ばれるようになり、仲間としての資格をようやく付与された。

 

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石原さんは若い世代の遊び場に三島由紀夫さんをよく連れ出した。その中に石原さんの大好きだった拳闘(ボクシング)があった。三島さんはのめり込むように、自らも拳闘を始めることになった。半年後、三島さんは通いのジムでスパーリングをすることになった。そのはしゃぎようはたいへんなものであった。

スパーリング当日、石原さんは8ミリカメラを手にして観戦した。三島さんは緊張と興奮で口数も少なかったとか。三島さんの監督がスパーリングの相手になった。50歳ちかくで、からだもでっぷりとした好人物である。三島さんだけヘッドギアを付けた。

始まると、三島さんは棒立ち。相手はからだに似ず軽快なフットワークで動き回る。動きの差は歴然であった。

三島さんは拳闘の練習を間もなくやめた。ヘッドギアの上から受ける軽いパンチも、頭にだいぶ響いたようで、頭をやられたくないと思ったらしい。そして、小説でも書けなくなったら、と判断したようだ。

しからばと始めたのがボディビルである。拳闘より無難なボディビルへの鞍替え。ひとりで刻苦勉励すればだれにも付着してくる筋肉の虚妄に囚われた三島さん。
隆々たる筋肉が実はまったく機能しないもの。肉体の罠に気付かず、うわべの肉体の出来上がりに錯覚したマッチョの挙句、ああした行為の末に自ら果てるということに。

あの行為が憂国の念に依るものであったことは疑わないが、三島さんがボディビルによるフェイク(にせものや模造品)な肉体を持たずにすんでいたら、ああした破局はやって来はしなかったろう。石原さんは述懐する。

 

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石原さんは自身の小説の映画化で、主役出演することになった。石原さんの熱望で、大女優・高峰三枝子さんに出演してもらえた。その出演交渉も石原さんが行った。

あこがれの大女優と打ち合わせのため、ふたりきりになったとき、石原さんは高峰三枝子さんに誘惑され口説かれた。石原さんが24、5で、相手は40前の女盛り。結局、石原さんが引いてしまい、あとでさんざん後悔したらしい。

その話を弟の裕次郎さんに話したら、高峰さんファンの裕次郎さんにはまったく信じてもらえなかった。

艶っぽい話はもうひとつ。ある夜、石原さんは新宿のナイトクラブで、売れっ子の有吉佐和子さんと出会った。いろいろな店でよく会うがこの日はふたりきりであった。語らずしてふたりともに、今までよりもっと進んだ、位相を変えた深いものに、との予感がめばえた。あの日のあの夜ほど、無頼の才女が可愛らしく可憐にさえ見えたことはない。

今までのいつもと違って、彼女が自分のことを違う心の感触でとらえていたに違いない。確信があった。そして、最後のきっかけとしてのダンスに石原さんが誘い、有吉さんもフロアに出たのであるが、抱き合った彼女が今まで言いもしなかったのに突然、「私ね、今夜ニンニクをたくさん食べちゃったの」と、詫びて囁くように言ったそうだ。


                                                                                参考: 『わが人生の時の人々』 石原慎太郎さん 著 (文藝春秋)